ベンジャミン・バトン 数奇な人生

すごく不思議な後味の映画だった。

この作品、予告編をみていたときは「エレファントマン」みたいな感じの作品かと思っていた。人とちがう容姿をもつことで、奇異の目にさらされつつも、自らの生きる場を探していく。哀しさの積もったストーリーなんじゃないかと。

ところが、観てみたら、印象はまったく違ったのだった。あたたかく、ジーンとしつつも、どこか物悲しく、それでいて切ない。人が生きるというのはどういうことなのか。「時」という軸を通じて、その意味合いを考える機会となる内容だったように思う。


この作品もまたいろいろなものがちりばめられている。しかも、どれもとても身近なものでありつつも、だからこそ本当の意味で考えて理解することが難しいようなもの。現実としてよくみる様子も、映画で観られる様子も、どちらも正しいようであり正しくないようでもある。自分自身はどうあることを望んでいるのか、どういう世の中だったらより幸せに感じられるのだろうか。いずれも答えの見つからないことなのだけど、考えずにはいられなくなった。

で、僕が思ったことを書き留めてみる。

この映画は「生まれたときに老人の姿で、年を追うごとに若返る」男性が主人公。まわりが老いていくなか、自らは若返っていくことで、まわりの人々と段々と年齢が交差し(年相応近くなり)、さらに逆の差となって広がっていく。ややもすると羨ましく感じてしまいそうな環境だが、少しリアルに考えるだけでそうでないことは想像に難くない。


■時間と成長の関係
この作品をみていていちばん強く思ったのが、生命が今の「成長⇒老い」という仕組みをとったのはなぜかということ。ベンジャミン・バトンのように、年齢を重ねるたびに細胞が若返っていった方が良い面もあるのではないかと思った。

人生が80年だとすると、50年ほど生きたところで30歳の肉体を持つことが出来る。十分に成熟した内面をもって30歳のカラダで動き回ることが出来たら、相当に生産的な暮らしができたりしないだろうか。

実際のところを考えてみると「幼い時期の生存確率を高める」とか「生産量(行動力×活動期間)を最長にする(活動に立ち上がる時期を早くする)」とか「進化を促進させる」といった生物的な事情があったのだろうとは思う。

あとは、もっと感覚的なところで「外面×内面」ができるだけ一定値になるようにできているのかなぁとも思った。内面は経験から磨いていく必要があって、それを補うのが外面。若者も老人も等しい価値を持っているという考えという感じですかね。



■できない自分のあり方
年齢を重ねると、老いによって段々とまわりの世話にならざるを得なくなる。一方で、ベンジャミンのように若返っていったとしても、最終的には赤ちゃんとなってまわりの世話が欠かせない。どちらからの人生であれ、少なからず自分では対処できない状況に置かれることが必ずある。

そこまで極端ではなくても、日常のいたるところで、自分の手には負えないようなことに取り組む機会はよくある。そんなとき、どうしたらいいか。

ひとつは、同じ境遇の人と過ごすということ。これは、安心感につながる。ネガティブにとらえると「傷をなめあう」みたいな感覚にもなりそうだけど、そうではない。大事なのは「できる人が正しいわけじゃない」ということを理解できること。できないなりに過ごす意味がある。「他にできることがある」とか「できるようになるかもしれない」という道に気づくことも大切。

もうひとつは、できない人として過ごすこと。できないことそのものを受け容れた上で、できる人々と共存すること。「できないから認めてもらえない」ではなく「認めてもらえるできることを見つけて実行する」こと。それを支えるのは「素直さ」。これさえあれば、きっと乗り切れるのではないかと思う。

みっつめは、愛情を持って去ること。できない自分が本当に役に立つことができないこともある(かもしれない)。他にできることがあったとしても、できないことが致命的なときもある。愛情があればこそ、相手を思えばこそ、離れずにはいられないこともある。大切なのは、離れても、見守ること。直接ではなくても、愛情を注ぎ続けること。


いっぽうで「受け容れてもらうことを受け容れる」という覚悟にいたることもありだと思う。「甘える」ということ。世話をする方も受ける方も、お互いに感謝を持ち続けられるのであれば、この関係を選択する価値は十分に高いと思う。




この物語では、ここまでに書いたようなことを通じつつ、「人と違うことの意味」についても触れているように思う。違うことは、苦労ないし苦難を伴う。いっぽうで、違うことで得られるものもある。そんななかで良い人生を送るには、「自分にとって大切な何か」を見つけることだと思う。それがあれば、「まわりとの違い」との向き合い方を、自分で定めることができるんじゃないかと。

主人公のベンジャミンは、いくつもの「振り回される」機会に遭遇した。でも、いずれも(良し悪しありつつ)選択をしていった。その中には、実感をもって想像できないようなこともあったけれども、大いに共感できることもたくさんあった。僕を含め、館内のあちこちから鼻をすする音が聞こえてきたのが、その証拠だったように思う。


タイトルやストーリーが突飛な印象を受けやすい作品ですが、内容はとてもしっかりしていると思います。面白いシーンもあれば、苦しいシーンもあります。しかし、いちばん印象に残ったのは、心にジーンと響くシーンでした。自分にとって大切な人との向き合い方を、あらためて良いほうに向きなおさせてくれる作品だと思います。

チェンジリング

この映画、てっきり「change ring」だとばかり思っていた。実際は「changeling」。意味がわかってみたらストレートなタイトルだったのでちょっとびっくり。と、軽めに触れてから。

2時間強とは思えないくらい濃密に詰め込まれた映画だった。絶え間なく続く緊張感、ふと訪れる感情を揺さぶる瞬間。事実であるということも頭によぎりつつ、頭をあまりにもたくさんのものが錯綜していく。あまりにも濃すぎて「まだ続くのか?」と思うことが何回もあった、にもかかわらず最後までひきつけられ続けた。すごい作品だった。

この映画もまた織り込まれたことがたくさんあり、感想をまとめることがとても難しい。頭と心にしっかりと植え付けられた何かはあるは間違いなく実感できるのだけど、それがどういう姿をしているのか自分自身でもうまく把握できていない。ましてや、人に伝えられるような理解はなかなかに難しい。そんな中で感想を書く。


■事実は「感覚」か「資料」か
この物語(というか史実)は、警察の誤捜査に端を発している。行方不明になった少年を見つけたが、母親はそれを否定する、という。しかし、警察は提供された・発掘した情報を元に少年にたどり着き、否定をしている母親は自らの感覚からだ(実際は、客観的な情報ももっている)。

自分の目の前に現れた人物が自分の身内であると告げられた。そのとき、何をもってそれを受け入れられるか。身長や体重といった体格的特徴、パーソナル属性や思い出のような記憶的特徴、多くの指標がすべて自分の身内として申し分ないものが揃っていたとする。そのとき、もし自分の感覚が「身内ではない」と判断していたとき、どちらが事実なのだろうか。あるいは、自分が事実と信じることができるのはどちらだろうか。

これは、身内の判別に限った話ではない。世の中に出回っている情報がすべからく事実かどうかを考える必要性も示唆している。

ネットから得られる情報が該当しそうに思われがちだが、実はそんなことはない。マスコミを経由したほうがゆがんでしまっていることだって十分にありうる。人づてに聞いた情報だって、伝言ゲームであるともいえる。大事なのは、そこに潜む「事実ではないこと」に踊らされずにいることなのだと思う。


ただ、これはとてもとても難しい。何をよりどころにするのか、ということにもつながってくる。自分が考えることで判断するしかなくなってくるようにも思うが、それも限界がある。ついた方がいい嘘があるのも、また真実でもある。何もかも正しいことがすべてではない。

じゃ、どうするかというのは、またちょっと別のところで考えてみる。


■面子は情報によって制御され、正義は志によって貫かれる
情報は、本来的には人々の生活を豊かにするために存在しているのだと思う。でも、現実を思うと、必ずしもそうなっていない。人々を不幸に招き入れる情報が闊歩していることも実感する。

これは、おそらく、人の利己性によるものなんじゃないかと思う。ありていに言えば、面子を守るために情報をうまく使う。自己利益のために人を陥れるといった使い方に通じる。弱肉強食的な生物としての本能がある限り、こうしたことは避けられないのかもしれない。

これを超えるために、人には「正義感」が備わっているのだと思う。正しいことをしている人に、理屈を超えて共感する力。自分にとって不都合であり不利益であることであっても、力を貸さざるを得ないほどに揺さぶられるもの。それが「志」。情報では揺り動かすことのできない何かが、人には備わっている。そう信じたい。



■希望という束縛、絶望という自由
人が生きていくためには、向かうべき方角を知っている必要がある。どこに向かえばいいのか、どこまで到達すればいいのかわからない暗中模索の中にい続けることほど苦しいことはない。

向かう先を示してくれるのは「希望」なのだと思う。これがあればこそ、人はあきらめることなく、生きることを、前に進むことを選択できる。心に明かりと潤いをもたらし、思考と行動を生み出すエネルギーを与えてくれる存在。それが、希望。

しかし、希望がすべからく望ましいものかというと、そういいきれない面も感じる。それは、ひとたび希望を持ってしまうことで、それ以外の選択肢をもてなくなってしまう可能性の高さ。スタート時点が苦しいときであるほど、その束縛性はとても高くなってしまうように思う。でも、苦しいときほど、選択肢は多く必要なはず。盲目的に動くことで打開すべきときも多いとは思いつつ、本当にそれでいいのか問うことができる余裕を欠かしてしまう怖さも並存する。

このバランスをとるのが「絶望」なのだと思った。絶望はあまりにもネガティブで、忌むべきもののようにも感じる。実際、味わわなくて済むのならそうしたいとも思う。

しかし、ある境界を越えた(かつ、ある一定ラインに収まった)絶望を味わったとき、人は選択肢を失うことができる。今まで手にしていた糸を離すことができる。それは、エネルギーゼロで暗中模索状態に陥ってしまったともとれるけれど、ある意味では自由になったともとれるのではないか、と。

そこまでたどり着いたときこそ、本当に希望を手に入れる意義があるタイミングではないかと思った。それまでに盲目的に期待していたことから解放され、新たに手にする選択肢には新しい可能性が満ちているかもしれない。少なくとも、そうなっている選択肢を選ぶ機会なのだと思う。


絶望を味わう必要性というのはネガティブ極まりないようにも感じられるかもしれない。でも、もし、そういう瞬間に立ち会うことになったとき、「これは自由になったタイミングだ」と思うことができたら、また道が開けていく。いざとなったとき、そういう受け止め方や考え方ができるように、頭の片隅に置いておきたいと思う。




この映画、PG12指定されている。予告編を観ていただけのときは、なんでそうなっているのかはわからなかった。観てみると、確かにやむをえないかなぁとも思う。そういう重さがついてまわる作品ではあります。でも、それを補って余りあるくらい、多くのことを得ることができる(あるいは機会につながる)作品だとも思います。

物語の舞台は1900年代前半ですが、現代でこそあらためて考えなければならないことばかり。この日記ではネガティブな印象を強めに書いてしまいましたが、そうしたことを通じて望ましい未来を見つめるためのきっかけになる作品になりうるものだと思います。

R-1ぐらんぷり

ということで、本日決勝が行われた。平日のゴールデンということで生放送には間に合わなかったのが残念。でも、内容はかなり満足。敗者復活は正直いまひとつだったけど、決勝はかなり面白かった。敗者復活とはかなり出来に差があると感じた(ということは、上位とそれ以下とにかなりの開きがあるのか・・・?)。


まずは、結果を振り返る。

683点 中山功太
675点 エハラマサヒロ
672点 バカリズム
672点 COWCOW山田與志
663点 あべこうじ
662点 サイクロンZ
645点 鬼頭真也夜ふかしの会
642点 鳥居みゆき
634点 岸学
622点 夙川アトム


この得点、あまり違和感がない。というか、なかなかうまく採点されていると思う。敗者復活からあがってきた二組は、最初と2番目という条件が不利に働いてしまった感もあるものの、敗者復活の出来と比べてあまりあがっていないのでこんなもんかなぁとも思う。


中山功太は、あいかわらずいいネタ仕込んでくるなぁ〜。フォーマットも新しいし、ひとつひとつのネタも面白かった。「地球最後の日に誰かが言うこと」で最後にいい感じで笑って終わったのもよかった(答えは「みんな。笑おう」(笑))。
ただ、今回は運もよかった。あのネタが受け容けるような流れができあがってきたところに入ったと思う。そういう背景も含めて、優勝にふさわしかったのかもしれない。

エハラマサヒロは、ネタがばしっと場にはまっていた。あのうざさ加減は場の雰囲気によって受け方がすごい変わると思うのだが、今回は爆笑になっていた。僕はあのネタを何度も観たことがあったので新鮮味にかけた分、今回の点数ほどの評価でもなかった。ただ、この点数に値する実力があることは証明されたとおもう。

バカリズムは、個人的にはいちばん良かった。笑いの量も爆笑の度合いも、いちばん。「都道府県を持つ」というコンセプトであれだけの世界観とネタをつくりあげるのは、たぶん相当にすごい。思いつきそうで思いつかないし、思いついたとしても面白いネタとしてまとめあげるのはかなり難しいはず。でも、バカリズムはこのあたりのさじ加減が絶妙にうまい。本当に感心するほどに。


COWCOW山田與志もよかった。てっきり「北の国から」か「ほんこん」のどちらかで来ると思っていたら、きっちりと新ネタ。しかも、ネタもじゅうぶんにくってあって、完成度も高かった。ゴルゴ押ししたのは面白かった反面、ゴルバチョフとか根幹ではない変化球に笑いがいってしまったのが僕の好みとずれていた。ただ、あの独特な世界観をつくりあげたのは、まちがいなくすごい。


あべこうじは、予想通り。面白さの度合いも、受け方も。実力があるから受けるのだけど、キャラとインパクトや笑いとの結びつきが弱くなってきてしまっている。あのキャラであのネタをやるには、あまり知られていないからこそ生きる・でも、これだけ連続して出場していると、ちょっと厳しい。
次回は一気に雰囲気や内容を変えてくると、意外とすごい爆発するような気もするが。本人的には同考えるか。


サイクロンZは、はじめてみた。面白かったけど、個人的にはあまりはまらなかった。観ていて思ったのは、麒麟がM1の第1回に出場したときにやっていたネタ(というか、麒麟の当時のスタイル)に似ているなあ、と。あれのダンス版みたいな。
今年売れる流れはありそうだけど、来年もでるのだとするとまったく違うネタが必要そうな気がする。


鬼頭真也夜ふかしの会)は、ちょっとよくわからない。実演販売を見ているような感じというか。芸人のネタとしての面白さは、あまり感じなかった。ネタのひとつひとつが弱いし、あるある系である割にゾーンが狭い。ただ、芸としてはよくできていると思う。本人もいっていたけど、あれだけの量をあの速さでかまなかったのはすごいと思う。でも、それと面白いはちょっと別。


鳥居みゆきはちょっと難しいネタをもってきたなぁ。鳥居みゆきファンがライブであれをみたらありだと思うけど、ゴールデンでやるR1のネタとしては評価されにくいタイプだと思う。審査員の江川達也もいっていたとおり、ストーリーや設定はよくできていたと思う。あとは、あの場にあうネタとキャラをもってくる気があるかどうか。


岸学は、あきらかにパワーダウンしていた。敗者復活は、いろいろ思うところはあったけど爆笑させられた。でも、今回はそうならなかった。ちょっと残念。

夙川アトムも同様。ただし、こちらは敗者復活のときに使ったネタよりも、さらに前からテレビで披露していたネタ。敗者復活での予告ともつながっていないし、拍子抜けしてしまった。せっかくいいフォーマットを作ったのだから、もっといろいろ作って欲しい。モンスターエンジンの神様コントみたいに連発してしまうくらいに。


といった感じで。とりあえず思ったのは、全体としては満足。敗者復活の印象がうそのように面白かった。
ま、せっかく決勝本戦はいい内容だったので、来年は敗者復活等いろいろ改善をくわえてもらって、さらに面白い大会に育てていって欲しいと思いました。今回の出場者の活躍と、次回のさらなる面白い内容を期待して締めたいと思います(^_^



それにしても、いちばんびっくりしたのは、自分の予想の的確さ。自分で言うのもなんだが、良く当たった。

http://d.hatena.ne.jp/stky16/20090210

【本命】バカリズム
【対抗】中山功太
【大穴】エハラマサヒロ

上位3人を完全に的中。我ながらちょっとびっくり。これは、なにかいいことがあるかな(^_^

R1ぐらんぷり敗者復活

ん〜。正直、あまりよくなかったなぁ〜。事前の予想は5割の正解(夙川アトムが通過)だったのはいいけど、全体としての評価はいまいち。敗者復活、やった意味あったのか?



個別のネタを振り返ってみる。


三浦マイルド
 悪くなかったと思う。世界観を一気に切り替えた瞬間をなかなかうまく使ってたし。面白かった。なんというか、観客的にはヘタウマ感の面白さが逆の効果になってしまった感じだったのかな〜。

くまだまさし
 レッドカーペットでやってることやりすぎ。芸風的に、すでに知られているネタが受けるタイプの大会ではないと思う。結果的にもやむなし。

・もう中学生
 正直、敗者復活枠に残ったことがよくわからない。お笑い界として「もう中学生」枠があるのはいいけど、ガチの大会でやっちゃだめ。

友近
 この人、今回もネタ選びが失敗。実際のところは、面白かったのだけど(高知東生のくだりとか)。とはいえ、こういう大会で、しかも観客が審査員という場面だと厳しい。わかりやすい笑いに負けちゃう。こういう場でも受けるネタがあるのになぁ・・・(ライブで観たネタで当てはまるものはいくつもある)。

夙川アトム
 事前の予想通り、こういう大会にはまるネタだった。面白かったのだけど、半年以上前にやっていたのとほとんど同じネタだったので、個人的にはちょっと残念だった。
 ただ、敗者復活でこのネタをやってしまったということは、本戦では同じネタができない。ネタの最後にいっていた「次回は『王様の耳はロバのみみ』」が本当だったとしたら、新ネタだ。だとすると、かなりいい線にいく期待がある(^_^


岸学
 面白かったけど、ずるい。あれは、笑うし、一般客が点数を入れてしまう。そういう意味では作戦勝ちなのかもしれないけど、ピン芸人日本一を決める大会が、そういう審査でいいのか?
 岸自体は面白いのだから、ああいう形で勝ちに行くネタにいってしまったのが観ていて悔しかった。あれは学園祭感覚。R1ではない。

鈴木つかさ
 悪くないのだけど、懲りすぎだった気がする。竹内力クロスワードをうまいこと組み合わせていたのだけど、落ちまでの流れをきれいにしすぎて面白さが減ってしまった。ああいうきれいなことせずに、もっとアホ全開でいけば面白かったと思うのだけど。どうなんだろう。

・ナオユキ
 緊張していたのだろうか。いまひとつ面白さの勢いがなかった気がする。この人もネタがきれい過ぎだったように思った。途中、タクシーのネタで、内容に本気で感心してしまった観客もいたり。うまいことネタを選ばないと、その部分の面白さじゃない捉え方をされてしまう。この辺、こういう大会の難しさなんだろうなぁ・・・。

・天津木村
 正直、きつかった。下ネタだったのはかまわないけど、面白い要素がなかった。「下ネタあるあるだったらウケるだろう」くらいの印象だった。バックトゥザフューチャーの音楽を使ったあたりも、ちょっと引いてしまった。場が違えばあれでも面白い流れができるのだけど、この大会でやるネタじゃないと思った。

ヤナギブソン
 この人もネタがきれいすぎた。すっごいうまいネタなんだけど、爆笑がなかった。ジャブがうまいボクサーという感じ。R1だと、一撃必殺があるタイプがいちばん強い。逆に、それがないと、どんなに他がうまくても厳しい。土肥ポン太が苦戦している理由でもあると思う。



といった感想でした。全般的に、きれいにいきすぎている感じでしょうか。R1って、以前はもっとぶっとんだことやってる人たちが多かったと思うのだけど。コモディティ化している感じがするというか。K1が面白くなくなってきているのと同じ感じですかね。


ま、決勝はアホなことをしてくれそうな芸人がまだまだ残っているので、勝ち抜いた岸学夙川アトムが、この敗者復活戦を踏まえて大爆発してくれることを期待したい(^_^

R-1ぐらんぷり2009予想

R-1ぐらんぷり。一昨年・昨年とプラン9のなだぎ武が連覇して、なかなかに感動した。その前は、ほっしゃんが優勝して、これまたなかなかにジーンときたのを憶えている。どちらも力はあるのになかなか発揮されないというか、受け容れられなかったというか、埋もれていた感じがあった人たち。そういう人が一躍脚光を浴びる機会となるのは、見ていてなかなか心地いい。

そんな味わいのあるイベント。今年の出場者をちょっとみてみる。

あべこうじCOWCOW山田よし鳥居みゆき中山功太バカリズム鬼頭真也エハラマサヒロ、サイクロンZ」という面々らしい。鬼頭真也とサイクロンZはネタを見たことが無いのでなんともいえないが、その分興味深い感じはある。でも、これまでの大会の感じからすると、ちょっと厳しそうな気がする。勘だけど。



優勝に近いのは誰だろう。なんともいえないが。ぱっと振り分けてみると・・・。

【本命】バカリズム
【対抗】中山功太
【大穴】エハラマサヒロ

ちょっとうさんくさい気もする(笑)

華のある面子を選べといわれたら「あべこうじCOWCOW山田よし鳥居みゆき」を選ぶ。ただ、他の出場者と比べると露出がありすぎて、こういう大会には不利な気がする。M1グランプリでいうと笑い飯のポジションに近いというとわかりやすいだろうか。

※ちなみに、あべこうじは、ライブのコーナー仕切りが抜群にうまいと思う。仕切りは「捨て」と「拾い」をいかにうまくテキパキと切り替えられるかが勝負。あべこうじは、そのキャラクターと声が「後味のが良く、ちょっとだけいい感じで嫌味のある」ように話を進める。あれは、すごい。


バカリズムは露出は高まっているものの、まだ「未知」感があると思う。ネタの引き出しが多い特徴もあるので、すでに知られていることの影響が悪いほうにつながることはなさそう。「トツギーノ」や「贈るほどでもない言葉」に続くようなネタをだしてくれば、かなり高い結果を期待できると思う。

中山功太も何度か登場しているが、この番組以外での露出がとても少ない。でも、面白いと思う。ライブではちょいちょい見かけるし、きちんと笑わしてくれる。ネタのクセが強いので受け容れにくいタイプなのが難点だけど、うまくはまれば可能性が十分にある。

そして、エハラマサヒロ。この人もけっこうテレビ出演が多いけど、あまり知られていない感じもする。ネタが常に斜に構えた視点からの内容なので、思いっきりはまるか外すかどちらかになりやすい。どっちかになるけど、はまったら強い。


あとは、ネタを見たことの無い「鬼頭真也とサイクロンZ」の二人が何をしてくるか次第ですかね。なんとも。



ところで、今年から敗者復活枠が設けられたらしい。M1はうまくいっているけど、R1はどうだろう。ちょっとはまらない気がする。あと、M1みたいに準決勝進出者全員から選ぶならまだしも、すでに絞った中からあらためて選ぶというのはどうだろう。それならはじめから10人を決勝進出者として選べばいいのに。

ま、そういっていてもしょうがないので、ちょっと予想を。

面子は
三浦マイルドくまだまさし、もう中学生、友近夙川アトム岸学鈴木つかさ(元ザ・プラン9)、ナオユキ、天津木村、ヤナギブソンザ・プラン9)」
らしい。


結構名だたる面々が出ているなあと思いつつ。ここは本戦出場者2名をズバッと指名買いしてみると。

 ・友近
 ・夙川アトム

友近は、女性芸人の中では頭一つ抜けている。というか、ピン芸人全般の中でもかなり上位にいると思う。決勝進出者も含めた全メンバーでいちばん露出が多い人だと思うのだけど、それがまったく悪い影響にならないと思う。人気だけであがってきたわけでもないし、露出がハードルになることもないと思う。
ただし。ネタの選択がうまくないようにも思う。自分が面白いと思うネタが、R1の舞台に必ずしも合ってない。もっと間口の広いネタをやったら、成績はかなりかわりそうな気がする。

夙川アトムは、昨年にいっとき話題になった(めちゃいけに出演して)のだけど、そこからしぼんでしまった。あのネタ自体はかなり面白いし、知らない人もまだいるだろうから、まだ通じるんじゃないかと。もし、当時に上乗せするネタが織り込まれていたら、かなりいいところまで行くかもしれない。


といった感じで。敗者復活組は、旋風は起こすと思うけど、優勝には届かない気がする。



ま、ここまでかなり適当に(眠いのをこらえながら)書いているので、どれくらいの精度のある予想なのかさっぱり想像もつかない・・・(^_^;

なんにしても、例年以上に爆笑させてくれれば、それで満足です(^_^

誰も守ってくれない

志田未来佐藤浩市らが出演、君塚良一監督の作品。モントリオール映画祭で賞をとっていたり、予告編から受ける印象もなかなか良かったこともあり、以前から鑑賞しようと思っていた。

この作品では、殺人を犯した兄を持つ妹と、その保護に当たる刑事の姿が描かれている。容赦なく襲い掛かり続けてくる世間の冷酷な仕打ち。報道の役割と権利を都合よく振り回してスクープを追い求めるマスコミ、自らは渦中に飛び込むことなく当事者たちを追い詰めんとする世間。犯罪者の家族に負わされる責任とはなにか、世間に与えられている権限とは何か。安全・安心な暮らしのために許されること・為さねばならないことは何か。

そうした状況の中、お互いに不安と不満がつのりつつも、その背景にある優しさや暖かさに気づき、思いやりと感謝が芽生えていく。

心温まるハッピーストーリーではなく、とてもどろどろとした重苦しい場面もたくさんでてきます。現在の社会での怖さや哀しさを味わうこともあります。一方で、それでも「人」に対する期待・望みもあらためて気づくことができる作品だと思います。



さて。鑑賞後、ストーリーそのものとは別に、思ったことがあった。それは「情報化によるリセットの難しさ」。

罪を犯したとき、償いが必要だ。そして、償いをまっとうしたときには、復帰・再出発を許容することも必要。許しがたい罪には、償いの重さに転換すべきであり、復帰の道を閉ざすべきものではないと思う。
※とはいえ、被害を受けた側にまわったときに同じ事を言える自信はない。ただ、罪を犯した人の中にも、復帰に値する人がいることも間違いないとは思う。


しかし、今の情報流通度合いの影響で、この復帰が強烈に難しくなっているように思う。ありとあらゆる情報が、ありとあらゆる機会を通じて、ありとあらゆる方法で取得できる。償った罪が過剰に蒸し返され、本来は社会に適切に生きることができる道を狂わせてしまいかねない。そんな怖さを感じた。

特に、今のネットはあまりにも「発信者側にとって都合がいい」状態にある。大群衆と匿名性をよりどころに、本来は備わっていない「強者の理屈」を振り回すことができてしまう。「セーフティ」に「卑下行為」を「面白おかしく」実行する。そこに「カッコいい」という価値観をもって。


人は過ちを犯す。潜在的に備わっているものなのか、偶然によるものなのか、根源的な要因はわからない。でも、事実として過ちは起きてしまうものだ。許されざる過ちもあるが、そうでない過ちもある。であれば、後者にはやり直す機会が与えられる社会であってほしいと思う。

※自分自身、こう書いていて割り切れないものもすごく大きく、ジレンマを感じている。とても難しい。



では。こうした過剰感のある情報社会のなかで、折り合いを付けられるようにするにはどうしたらいいか。ちょっとだけ考えてみた。

思ったのは「情報をオープンにする」ということ。

今のネット(というか、人のサガといってもいい気がする)は、「世の中に出回っていない情報をいち早く書き込む」ことでランク付けされている。「知らないから知りたい」という欲求だけで動き、価値が根付けされる。であれば、最初から多くの情報が示されていれば、炎上的な騒ぎを抑えられないかなぁ、と。

どこまで何をオープンにしておくかとか、何かしらほじくりだすことはあるとか、言い出したらきりが無いことでもある。ただ、自分で出すのと、勝手に掘り起こされるのとでは、受けるダメージが違うとは思う。


もうひとつは、オープンにすることで、自らの規範につながること。パーソナルが知られている場では、礼節を欠く行動は慎みたくなるのではないかと。「勝手知ったる」とばかりに無礼講に流れることもあるかもしれないが、愛嬌の範囲にとどまることが多そうな気がする。


そして、オープンにしたことによる「つながり」が支え合いを生み出すこと。相手を知っていると、何かしら絆が生まれる。この絆は、偏った(あるいは誤った)情報で判断を狂わせない、大事な軸になる。何よりも、償いの価値を適切に認める拠りどころであり、復帰を支えるエネルギーになる。


オープンにすることは、とても怖い。今の世の中ではまだ、ポジティブではない面が大きすぎると感じてしまう。社会的にも制約をかけていることも多い(実名ブログを禁止する企業とか)。でも、オープンにする方向に進むことを考えておく必要があると思う。今は、きっと、昔の「村」が極端に大きくなってきている感覚。であれば、同じ村の人については知り合えるようになっていく方が自然だと思う。



過ちの扱い方については、「情報」とは別の視点からアプローチすることも必要だと思う。今回は考えないですけど・・・(^_^;


作品の内容そのものの感想は、ちょっと控えめにしました。感想が少なかったからではなく、まとめにくかったのと、僕自身どう捕らえるべきかかなり迷っていたのと。


ただ、ストーリーも演出も、出演者たちの演技も十分に堪能できる作品だと思います。エネルギーが弱いときにはちょっと刺激がしんどいかもしれませんが、一見の価値はある映画だと思います。

いつまでもデブと思うなよ  レコーディングダイエット

ずいぶん前に話題になって、かなり流行った気がする。今でもネットやら何やらで見聞きする言葉でもある。なんとなく気にはなっていたのだけど、なんか流行りすぎていたというか、恣意的な感じがあったというか、ちょっと本に手を伸ばすのをためらっていた。著者の岡田斗司夫のキャラクターの影響が強かったのかも。

が。最近はそういった雰囲気も落ち着いていたのと、少し前にテレビで放映されていた岡田斗司夫の姿をみて、あらためて興味がわいたのだった。見た目が変わっていたのだけならいざ知らず、醸し出す雰囲気が全般的に変わっていた気がしたのだ。

岡田斗司夫って、僕の印象だと伊集院光とかぶっているところが多かった(というか、伊集院光と記憶が混在している)。オタクな話題に入っては、べらぼうな知識を背景に、ポジティブなオタク感満載のエネルギーで突き進んでいく、みたいな。

ところが、映像で見た岡田斗司夫は、アカデミックな気配が漂っていた。ま、本業がアカデミックの人(のはず)だから、当たり前っちゃあ当たり前なのだが。でも、以前はそれが薄かったのが、強烈に前に出ていた。やせたことでクレバー感が増したことは事実だが、たたずまいの変化の方が印象に残った。ガツガツ・ガサガサしていない。


なんていうことを思いながら手に取った本。僕自身、かつて何度か体重を落とした(10kg単位で)こともあった。この手の本を読むと、「ある・ない」はある程度はっきりわかる。自分に合うかどうかと、一般性の高さについては、かなりきっちりと分けられる自信もあったりなかったり。

で、この本はどうだったかというと、「あり」だった。というか、けっこうすごくよくまとめていると思った。岡田斗司夫という巨体に対するダイエットとして、特殊なケースに流れていくかと思いきや、まったくそんなことはなかった。レコーディングダイエットの概要は知っていたから「一般的なもの」に部類するとは思っていたけど、本を読んであらためて感心した。


では、内容に関して思ったところを。


前半はダイエット概論というか、ダイエットにまつわる背景が書かれている。ここは、ダイエットにはじめて取り組む人か、とっかえひっかえ試してなかなかうまくいかない人向けの内容だと思う。僕はあまり印象に残らなかったけど、「これからダイエットに取り組むのだ!」というスタートラインに立つまでの補助という感じ。


面白かったのは、とにかく記録するという考え方。これ、すごくよくわかる。食べたものリストや体重の測定は、よくある。ただし、この段階では何も我慢せず、今までどおりに過ごすということ。ただひたすらにメモを取り続けるという。ただし、実はかなり難しい。ダイエットしたいから始めるのに、今までどおりすごせというのだから。

ひとつは、せっかくのやる気を削がれる感じになること。スタートダッシュというわけでもないが、一気呵成に走りたくなるのは人のサガ。でも、「まだ動くな」といわれてしまっている。
もうひとつは、体重や体脂肪率を減らしたいのに、今までどおりだったら減らない(あるいは増える)という抵抗感。せっかく頑張ろうとしているのに、そうした数字が続くことはそこそこのハードルになる。しかも、それを記録するというのだから、さらに気が滅入りそうな気がする。


しかし。岡田斗司夫いわく「自分の悪しき習慣を、事実を踏まえてきちんと分析・理解することが大事」と。これ、まったくそのとおりだと思う。もうちょっというと、分析ということまでしなくても、「ただ単に記録するだけでわかるレベル」だけでも十分。

このあたり、本にも書かれているし、あらゆるレビューでも書かれている。僕もそう思う。いろいろと説明できなくも無いけど、たぶん伝えきれない。実際にやってみるのが、何よりもわかりやすい。運動でのコツとかの似た感覚のようにも思う。「ボールの芯を打ち抜いた感覚」とかそういうもの。


記録の意義については、もっと深い意味合いも思う。というのも、自分の経験上、リバウンドが抑えられなくなるのは「記録をやめたとき」とかなり重なるから。

体重が増え始めた頃は、まだ体重やら何やら書き留める。書いているうちは「太ったな。2週間くらい食事を抑えないとな」とか判断がつく。でも、これがうまく制御できないときもある(忙しかったり、ストレスが高すぎたり)。そうなると、体重を記録すること自体が嫌になる。

こうなると、歯止めを利かせる要素がなくなってしまい、再度のダイエットが必要なくらい体重が戻る。おそらく、世間でいうリバウンドはこの状態を指している。ちょっと体重が戻るくらいのこともリバウンドといってしまうことがあるのだけど、まったく別物であることを理解する必要がる。記録をとっていると、戻せる段階と戻せない段階を判別する基準が見える。これが、ダイエットの継続に重要。

書籍では、このあたりの展開まで含めて、ダイエットの全般の工程と「記録」とのつながりを書いている。「75日目での停滞」なんかも、実感として理解しているものだったので、内容については大いに共感した。


この本、もうひとつ「良いなぁ」と思ったことがあった。それは「意志ではなく知恵で乗り越える」というスタンス。

ダイエットというと、どうしても「我慢」とか「耐える」とか、苦しさが伴うものとなる。だから「○○ダイエット」という楽チン的な発明があとをたたないのだと思う。でも、レコーディングダイエットでは「何も我慢しない」ところから始まって、自然に「ダイエットにつながる行動をしたくなる」ような流れが示されてしまう。それも、けっこう多くの人が使える仕組みとして。



一方で、気になったことはふたつあった。

ひとつは「記録をとれるのかどうか」ということ。実際のところ、正直面倒な気がする人は多いと思う。僕もそう思ったうちの一人でもある。体重や体脂肪率くらいは書けるけど、「食事の内容までは・・・」とは思った。

でも、実際はなんとかなるとも思う。というか「どうやったら毎日書けるか」を考えれば済むだけだ。本来ならダイエットの方法や苦しさの乗り越え方を考えるはずなのが、向かう先が変わるだけ。たぶん、なんとかなる。毎日日記を続けた人間だからそう言えるというのもあるかもしれないけど、実際はそうじゃない。誰でもできる。極論してしまうと、やるかやらないかだけだ。


もうひとつは「食べ過ぎないために残す」ということ。これは、いまだにちょっと引っかかっている。

食事を食べ過ぎないために、でてきたものは「食べたいものをすべて食べる。ただし、量は必要な分だけにするために、残す」という考え方。本の中では「ムダに多く食べるほうが、残すよりも非効率的」といった考えが示されていた。わからなくはないけど、これが正解と落とすには早い気がする。

僕自身、答えはまだ持てていないのだけど、ものを残すのは(やむなしのときを除いて)あまり好きではない。どうせなら「食べた分を消化する」ようにしたいと思う。いや、「長い期間でみたときの総消費量がおさまるように調整する」という感じかな。

ここは、なんともいえません。



と、いろいろ書きましたが。基本的にはオススメの本・方法です。同じ事を試したわけではないのだけど、似たような経験があるのと、内容として意味合いと効果は妥当だと思えるものです。多くの人にとってのハードルは「記録し続ける」ことになると思います。でも、それを理由に手を伸ばさないのは、あまりにももったいない。そういえる本だと思います(^_^



ちなみに。スタートを頑張るタイプのダイエットに取り組む場合。
僕が自分の経験から「健康状態が十分であれば、2ヶ月で体重の10%くらいなら極端に無理せずに落とせる」と思います。ただし「肥満状態からのスタートである」ことと、「健康的な影響からみての良し悪しには注意する」ことが前提。