チェンジリング

この映画、てっきり「change ring」だとばかり思っていた。実際は「changeling」。意味がわかってみたらストレートなタイトルだったのでちょっとびっくり。と、軽めに触れてから。

2時間強とは思えないくらい濃密に詰め込まれた映画だった。絶え間なく続く緊張感、ふと訪れる感情を揺さぶる瞬間。事実であるということも頭によぎりつつ、頭をあまりにもたくさんのものが錯綜していく。あまりにも濃すぎて「まだ続くのか?」と思うことが何回もあった、にもかかわらず最後までひきつけられ続けた。すごい作品だった。

この映画もまた織り込まれたことがたくさんあり、感想をまとめることがとても難しい。頭と心にしっかりと植え付けられた何かはあるは間違いなく実感できるのだけど、それがどういう姿をしているのか自分自身でもうまく把握できていない。ましてや、人に伝えられるような理解はなかなかに難しい。そんな中で感想を書く。


■事実は「感覚」か「資料」か
この物語(というか史実)は、警察の誤捜査に端を発している。行方不明になった少年を見つけたが、母親はそれを否定する、という。しかし、警察は提供された・発掘した情報を元に少年にたどり着き、否定をしている母親は自らの感覚からだ(実際は、客観的な情報ももっている)。

自分の目の前に現れた人物が自分の身内であると告げられた。そのとき、何をもってそれを受け入れられるか。身長や体重といった体格的特徴、パーソナル属性や思い出のような記憶的特徴、多くの指標がすべて自分の身内として申し分ないものが揃っていたとする。そのとき、もし自分の感覚が「身内ではない」と判断していたとき、どちらが事実なのだろうか。あるいは、自分が事実と信じることができるのはどちらだろうか。

これは、身内の判別に限った話ではない。世の中に出回っている情報がすべからく事実かどうかを考える必要性も示唆している。

ネットから得られる情報が該当しそうに思われがちだが、実はそんなことはない。マスコミを経由したほうがゆがんでしまっていることだって十分にありうる。人づてに聞いた情報だって、伝言ゲームであるともいえる。大事なのは、そこに潜む「事実ではないこと」に踊らされずにいることなのだと思う。


ただ、これはとてもとても難しい。何をよりどころにするのか、ということにもつながってくる。自分が考えることで判断するしかなくなってくるようにも思うが、それも限界がある。ついた方がいい嘘があるのも、また真実でもある。何もかも正しいことがすべてではない。

じゃ、どうするかというのは、またちょっと別のところで考えてみる。


■面子は情報によって制御され、正義は志によって貫かれる
情報は、本来的には人々の生活を豊かにするために存在しているのだと思う。でも、現実を思うと、必ずしもそうなっていない。人々を不幸に招き入れる情報が闊歩していることも実感する。

これは、おそらく、人の利己性によるものなんじゃないかと思う。ありていに言えば、面子を守るために情報をうまく使う。自己利益のために人を陥れるといった使い方に通じる。弱肉強食的な生物としての本能がある限り、こうしたことは避けられないのかもしれない。

これを超えるために、人には「正義感」が備わっているのだと思う。正しいことをしている人に、理屈を超えて共感する力。自分にとって不都合であり不利益であることであっても、力を貸さざるを得ないほどに揺さぶられるもの。それが「志」。情報では揺り動かすことのできない何かが、人には備わっている。そう信じたい。



■希望という束縛、絶望という自由
人が生きていくためには、向かうべき方角を知っている必要がある。どこに向かえばいいのか、どこまで到達すればいいのかわからない暗中模索の中にい続けることほど苦しいことはない。

向かう先を示してくれるのは「希望」なのだと思う。これがあればこそ、人はあきらめることなく、生きることを、前に進むことを選択できる。心に明かりと潤いをもたらし、思考と行動を生み出すエネルギーを与えてくれる存在。それが、希望。

しかし、希望がすべからく望ましいものかというと、そういいきれない面も感じる。それは、ひとたび希望を持ってしまうことで、それ以外の選択肢をもてなくなってしまう可能性の高さ。スタート時点が苦しいときであるほど、その束縛性はとても高くなってしまうように思う。でも、苦しいときほど、選択肢は多く必要なはず。盲目的に動くことで打開すべきときも多いとは思いつつ、本当にそれでいいのか問うことができる余裕を欠かしてしまう怖さも並存する。

このバランスをとるのが「絶望」なのだと思った。絶望はあまりにもネガティブで、忌むべきもののようにも感じる。実際、味わわなくて済むのならそうしたいとも思う。

しかし、ある境界を越えた(かつ、ある一定ラインに収まった)絶望を味わったとき、人は選択肢を失うことができる。今まで手にしていた糸を離すことができる。それは、エネルギーゼロで暗中模索状態に陥ってしまったともとれるけれど、ある意味では自由になったともとれるのではないか、と。

そこまでたどり着いたときこそ、本当に希望を手に入れる意義があるタイミングではないかと思った。それまでに盲目的に期待していたことから解放され、新たに手にする選択肢には新しい可能性が満ちているかもしれない。少なくとも、そうなっている選択肢を選ぶ機会なのだと思う。


絶望を味わう必要性というのはネガティブ極まりないようにも感じられるかもしれない。でも、もし、そういう瞬間に立ち会うことになったとき、「これは自由になったタイミングだ」と思うことができたら、また道が開けていく。いざとなったとき、そういう受け止め方や考え方ができるように、頭の片隅に置いておきたいと思う。




この映画、PG12指定されている。予告編を観ていただけのときは、なんでそうなっているのかはわからなかった。観てみると、確かにやむをえないかなぁとも思う。そういう重さがついてまわる作品ではあります。でも、それを補って余りあるくらい、多くのことを得ることができる(あるいは機会につながる)作品だとも思います。

物語の舞台は1900年代前半ですが、現代でこそあらためて考えなければならないことばかり。この日記ではネガティブな印象を強めに書いてしまいましたが、そうしたことを通じて望ましい未来を見つめるためのきっかけになる作品になりうるものだと思います。