母なる証明

一か月ほど前に映画館で予告編を観た。そのとき、「この映画を観なければ!」という直感。今年に入ってから掴みつつある「映画のチカラ」、その理解をさらに一歩進めてくれる作品になってくれるんじゃないか。そんな期待が、切迫感のような力強さで押し寄せてきた。
そして、先日、その期待を確かめるような気持で、映画館に向かった。


まずは、オープニングで驚いた。風が強く吹きすさぶ中、穂足の長い草原。一人の老女が紫色の服を身にまとって、何かを探すように視線と足取りを揺らしながら歩いてくる。しばらくしたところでおもむろに立ち止まる。あたりをじっと、そしてゆっくりと見回す。感情が読みとれない表情はまるで能面のようだ。いくらか悲しさがにじみ出ているようだが…。観ていて、困惑が膨らんでいく。

そして、とある瞬間、この老女がゆっくりと動き出す。身体全体もくねりくねりと揺れ始める。腕を上下左右に、阿波踊りをとても丁寧に踊っているかのような軌跡で動かしだした。表情とは裏腹な明るさを感じさせるような所作に、さらに困惑させられていく。


映画を鑑賞し終わったとき、このシーンの意味が見えてきたような気がした。監督の本当の意図は僕には把握できないけれど、鑑賞した人それぞれの解釈、映画の味わいにつなげられるシーンであったように思った。



作品を鑑賞している間、ずっと胸に何かが突き付けられたような緊張感があふれていた。あらゆる場面で、「今この瞬間に、何かが起きる!」と感じ続けさせられる。身も心も休まることなく、「その瞬間」に耐えられるだけの準備をし、構えてしまう。しかも、その瞬間が起きたときは、身構えていた準備を凌駕する衝撃をくらわせられる。
韓国作品のもつ力強さが、如実に表れている作品だ。



主役の老女が、雨の中を走る場面があった。整備されていない田舎の道を、月明かりすらない暗い夜の強雨の中、合羽を羽織ってひた走る老女。息を切らしながら向かった先には、一軒の空き家。階段を昇って屋上に辿りつくと、さらに雨に吹きさらされる。屋上にできたいくつもの水たまりに突き刺さる雨粒。明かりのほとんどない山間に並ぶ村の家々。自分の息子の敵とばかりに、屋上から睨みつける老女。

僕はたしかに映画館の中に座っていた。このシーンを観ていたとき、腕と肩のあたりに降り注ぐ雨の冷たさを感じた。そして、体全体が、濡れた体が冷えていくような寒さを感じた。そして、老女の胸の内にひそめていたであろう心の暗闇に、震えた。



母の愛は、あたたかい。どこまでも慈愛に満ちている。と同時に、とてつもないほどの強靭さを兼ね備えている。揺れることはあっても、折られることは無い。だからこそ、子は母を信頼し、生き抜くことができ、生き抜かせてもらえる。

そして、それらはいずれも、エゴに支配されかねないものでもある。視野が狭くなり、最後には盲目的になってしまうかもしれない。倫理を超えたところに、母子のつながりを見出し、それを是と認めてしまったときに。



この映画、どう捉えたらいいのか、今になっても迷っている。タイトルから察さられることがテーマとも思えるし、そうではない何かも込められているようにも思える。正直、今の僕の力量では、よくわからない。

それでも、わからないなりにも、強く強く伝わってくる確かな何かがある。それは、人として世の中を生き抜いていくための、支えや軸となること。生きることの意味を考えるときに、決して欠かすことのできないこと。



後味の重い作品ですが、それを超えて「鑑賞する価値のある力強いメッセージ」を受け取ることができると思います。