空気人形

是枝監督の新作ということで注目していた作品。鑑賞した人から直接きいた感想や、ネット上での評価、どれも高評価のものが続いている。いやがおうにも勝手に期待が高まってしまう。


とても静かで、そして日常の美しさを思わせる東京の河川沿いの風景。板尾が演じる男性が職場からひとりで帰宅している姿。コンビニに立ち寄り買い物をし、夜道をぶらぶらと歩きながら自宅に戻る。玄関を通過し、何やらつぶやきながら部屋の奥へと入っていく。部屋の中の映像にそこにはベッドに横たわる「のぞみ」という名のラブドールに向かってやさしく話しかけている。

物語は、おもしろおかしくもある、そんな優しい風景からはじまった。


ある日、「のぞみ」は心を持つ。主人が仕事に出ている時間帯だけ、部屋の外で生活しはじめる。ものごころついたばかりの子供のように、何も知らない、そして何事を知るのにも興味深々なのぞみ。いつのまにかはじめていたバイト先で、同僚にひとつひとつ教えてもらう。映画のこと・海のこと・たんぽぽのこと。愛らしく、純粋で穢れを感じさせない表情。爛々と輝く眼差しを向けられたら、笑顔でやさしく教えずにはいられない。(いい意味で)バカな子ほどかわいいものだ。

のぞみが幼い子供だったら、幸せでいっぱいな気持ちで観ることができた。でも、のぞみの本来の姿は、性欲処理の代用品だ。これほどまでに人を惹きつける魅力をもっているのに、純粋無垢とは対極的な役割を担っている…。
肌の質感、影の濃さに。映像から「わずかながらの『人』との違い」に気づかされるたび、観ていて心を曇らせ、胸を締め付ける。悲しみが、そこはかとなくつきまとう。



僕が中学一年生のとき、両親が離婚した。当時、友達たちにはそのことを話していなかった。恥ずかしかったのか、みっともなかったのか、面倒だったのか。理由ははっきりおぼえていない。ただ、言いたくないと思っていたことはおぼえている。

大学生になってしばらくした頃、同じような境遇にある同級生がいることを知った。ふっ、と肩が軽くなった。変に気を使わずに話せることが、わかりあえることがうれしかった。

今年の夏、あるセミナーで出会った大学生の青年と話す機会があった。話し込むうちに、彼が僕と似たような境遇であることを知った。そのときの彼の言葉には、まだ少しばかり絞り出すような力みが感じられた。
僕は、いくらか緊張しながらも、離婚した両親に対する気持ちについて素直に語り伝えてみた。話し終わる頃、お互いに視線高く向き合っていた。「なんか、歩きたいなぁ」、そんな心の軽さを感じた。




のぞみは、商品として生み出された。手作りされるパーツは多いとはいえ、自分とほとんど同じ品物が他にもある。性欲処理のための代用品には、それ自体の「替え」が存在する。世の中のことをおぼえ始めたばかりの無知さ加減でも、そのことの「現実」は、悲しいほどに理解できてしまう…。


無知であることは、純粋さ・無垢さを感じさせる魅力がある。と同時に、望んでいることとは間逆の結果を招いてしまうような愚行を犯してしまう可能性でもある。しかも、そのことに本人が自覚することも気づくこともないままに。取り返しのつかない事態に至ってもなお…。


今もふと、僕の頭をよぎることがある。身近にいた一人の友達が、数秒の会話を経ただけで、他人になってしまった。今も会いたくないと思われているかもしれないし、実際にもう会うことがないかもしれない。そのことに対して後悔はある。そして、それ以上に疑問がめぐり続けている。決して自分では答えを出すことができない疑問。思考が停滞する。過ぎ去ったことは、ぬぐい去ることもできない。

抗うか、受け入れるか。どうすればいいか、まだしばらく考え続けることになると思う。



映画を観終わったとき思った。のぞみは、人生をまっとうできたのだ。この解釈が適切かどうかは、とても微妙なのだけれど。でも、のぞみは、のぞみとして生きた。そう信じたい。



映画を観賞していて、とても印象に残ったことがあった。

この物語には、映画の前半から警察官が登場する。僕は、この役を演じている役者の名前が思い出せなかった。顔は間違いなく見たことがあるし、出演作品をいくつも挙げることもできた。でも、名前が出てこない。「あ…い…う…え…」と順を追っても、「…わ…を…ん」までいってもわからなかった。その後、1時間以上も頭の片隅で思い出そうとしながら映画を観ていた。

エンディングで、交番で水やりをしている警察官が映る。他の登場人物たちの場面から順々に切り替わりながら、警察官に登場の出番がまわってきた。その瞬間、名前を思い出した。頭の引き出しとスクリーンにいる人物とが、つながった。この映画を味わう幸せを手にした気分になった。



R15+だけあって、「テーマ、アイテム、演出」、いずれにもエロスがちりばめられています。しかも、ペ・ドゥナの美しさが、それをさらに引き立てています。
ただ、そうした際どさ以上に、作品には「今、この時代、この世の中、この社会を生きる」ことへのメッセージが詰まっている。しかも、そのための描き方に魂が込められている。「伝える」ではなく「伝わる」ための工夫に圧倒されました。

映画を鑑賞し終わったとき、ほとんど姿勢を動かしていなかったことに気づきました。じっと見続けたい。そう思わせる魅力にあふれた作品だと思います。
僕個人としては、今年の邦画ではイチオシです。

ゴーダ哲学堂空気人形 (ビッグコミックススペシャル)

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空気人形 O.S.T.

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