ティンカーベル

「大丈夫、わかるわ」

映画の中で登場するこの言葉がとても印象に残った。優しさにあふれた言葉だ。


ティンカーベルというと、僕が知っているのはピーターパン。しかも、昔、日曜日の夜7時30分くらいにフジテレビでやっていたやつ(フランダースの犬とかあらいぐまラスカルがやっていた時間帯だったかな)。そこに登場する妖精がティンカーベルをはじめて知ったタイミングだったように思う。

この映画では、ティンカーベルが生まれたばかりの頃の様子が描かれている。といっても、妖精だからか子供の姿ではなく、誕生したときから大人だ。これ、実はとても現在の大人の姿とかぶる。少なくとも、自分自身はそう感じる。


映画のテーマのひとつは「才能」。才能というと、以前日記に書いたことがあった。この映画を観たうえでも同じようなことを考えた。ただ、もうちょっと思ったこともあった。


物語に描かれている妖精の世界では、生まれたときに選択を迫られる。自分がどんな役割をもつ妖精になるかを決めるのだ。水の妖精だったり、花の妖精だったり、風の妖精だったり。目の前にいろんな妖精の選択肢がおかれ、どれかを選ばなければならない。

ただ、「選択すること=自分で決めること」をしていたとしても、その根底には「選択することも含めて定められたこと」という面もあるのだと思う。


■才能とは「認められること」も含む
才能って何だろう。僕自身、いまいちはっきりとしていないのが実際。ぱっと浮かぶのはイチローや(棋士の)羽生のような「特別な能力」をさしているように思ってしまう。でも、たぶんそうではない。僕が「才能」と呼びたいものは、人それぞれにあるもの。

といっても「その人のなかで突出した能力」に限るものではなく、もう少し違う切り口でみないとわからない。いまのところ「これ」というはっきりしたものがないので、ここではあいまいな説明になってしまっている。


ただ、ひとつ強く思っていることがある。それは「才能は自分だけで気づくのは難しい」ということ。自分の中で突出したものが才能だとすると、なんとなく自分でわかりそうな気もする。でも、それ(だけ)が才能かというと、狭くなりすぎてしまうと思うのだ。

狭くなりすぎないためのものが「まわりから評価され期待されること」ということ。
本人は他愛ないことと思っていても、まわりにとっては大変に価値があることとして理解されることもある。自分の価値観に凝り固まってしまうと、見逃してしまう。ありがちなことだけに、とてももったいない。


※少し注意しなければならないのは、「まわりの評価だけ」を基準にしても狭すぎるということ。本人にとっては自信のあることでも、まったく才能を理解してもらえないこともある。世間の枠を超えることが才能であるかもしれない。イチローだって、仰木監督に見初められなかったらどうなっていたかわからない。

あるいは、そもそも「世の中的に評価されないこと」が才能だったらどうだろう。自虐の詩の主人公のように、ヤクザの才能にあふれているかもしれない。ひょっとしたら、バットマン(特に、ダークナイト)のジョーカーのようになる可能性もあるかもしれない。

このあたりは、また別の機会にも考えてみたい。



■才能は決められているもの?
とはいえ、この映画を通じて思ったのは、「自分やまわりが決める」ことだけではない面もあるのではないか、ということ。

それは「選択肢はすでに存在している」こと。自分が生まれ出でた世界のなかで、ありとあらゆることについて、すべからく公平に可能性をもっているわけではない。きっと、僕はイチローになることはなかった。

といっても、選択肢が絞られているからネガティブだというわけではない。「すでに自分にとって選ばれた道が選択肢として目の前に広がっていて、そこからさらに選ぶことができる機会を与えられている」という感覚。


さらに、そうした道の中から選択するものもまた、実は決まっていることもあるだろう、と思った。目の前に並んでいる選択肢には「実際に選ばなくてもわかる」ものがあるだろう、と。「びびっ!」とくるというか、運命として寄り添っているものというか。

人生のなかで身近に起こることがあって、それに向かい合うために必要なことが「才能」。で、それはきっと「なんとなしにわかる」ものなんじゃないかと思ったのだった。
「運命」という表現が、いちばん近いかもしれない。



■才能と望みがずれていたら?
ただ、そうしたきっかけを通じて才能をわかることができたとする。でも、「才能がわかっていても、価値を感じられない」こともあるかもしれない。「隣の芝生は青い」という感覚がいちばんわかりやすいと思う。

だから、そうしたことを拭っていくために、いろいろやってみるのだと思う。

たくさんのことを経験する意味は、他の才能を探すためだけじゃない。自分の才能の価値を実感する機会を得るためにもある。特に、いろいろなことをやってみ失敗することがあったら、最高のきっかけ。しかも、それをリカバリーすることができたら、才能を発揮した瞬間を実感できるのだと思う。

いろいろなことの経験を通じて「自分の才能」に焦点・照準を合わせるには、「望み」の本質を探ることが大事。表面的な感情や感覚、頭に浮かぶ言葉そのものだけで捉えると、才能と望みはすれ違い続けてしまう。才能を実感する経験にはたどり着きにくいと思う。

大事なのは、「自分が期待されていること」を知ること。人から望まれることは、自分の望みと連動している度合いは意外と高いものなのだと思う。

さらに、そうした期待の中で、応えたいと思うもの・応えてもいいと思うものを、心で感じとる。心身ともに響き渡る期待を見つけることができたら、きっと才能は姿を見せ始めてくれるのだと思う。


■才能は連鎖する
そうした才能への気づきが連鎖することで、才能(の全体像)につながっていくのだと思う。

才能の連鎖はふたつあると思う。
ひとつは「才能が才能を呼ぶ」ということ。自分の才能がわかれば、その才能に合う・必要となる才能とつながっていく。これはお互いに引き合うもので、きっとつながるものなのだと思う。

もうひとつは、「自分自身のさらなる才能につながる」ということ。才能に気づいたとしても、それは一部分・一側面でしかない可能性は高いのだと思う。まったく違う才能を発掘できるのかどうかはわからない(難しい)と思うけど、新たな一面を発見し続けることは一生続けられるくらいのものはある。そう信じたい。



■才能にたどりつくために大切なもの
連鎖を続けることで、一生を通じてかけがえのない才能を得た喜びを味わうことができる。

ここで大事なのは、最初のひと足を踏み出すこと。これを生みだすのは「慈愛」だと思う。いついかなるときも自分を信じてくれる人がいるという感覚。僕がこの映画で感じたいちばん大きなものがこの部分で、冒頭に書いたセリフだった。

「大丈夫、わかるわ」

この言葉をいってもらえる人と一人でも多く出会いたい、この言葉をいってもらえる機会を少しでも多く得られるようにしたい。何よりも、自分がそういう存在となれるように。



僕の目指す姿のひとつは、才能のかけらに気づくこと・探し当てることができる人。自分自身に対しても、まわりの人に対しても。そして、かけらに気づいたときには、慈愛に満ちた「大丈夫、わかる」という言葉をかけられるように。



ここでは自分自身が思ったことをつらつらと書き留めましたが、映画を観てこそ思ったものがたくさんちりばめられています。

映画自体は子供の鑑賞にたえられるわかりやすいストーリーとなっていますが、この映画からたくさんの示唆を得られるのは大人であることは間違いありません。

今を生きる大人にとって、この映画を観ることで一度考えてみるきっかけとすることは十分に価値のある内容がこめられていると思います。