青い鳥

重松清の原作を映画化した作品です(僕は重松作品を読んだことはありませんが、世間からきく作品イメージは好みにあてはまる)。

この作品、前に進むとはどういうことか、が描かれているように思った。作品のタイトルである青い鳥は幸せの象徴として認知されている。この作品の中でも、そういう意図をもったものであることは示されている。しかし、ここで扱われているテーマは、いわゆる幸せではなく、幸せでない状態からどう歩みだしていけばいいのか、を考えるものとなっている。


人は生きている中で、何かしら過ちを犯してしまうもの。本人が意図したものであっても、そうでないものであっても。可能であれば回避したいと思うものだけれども、偶然も含めて渦中にいる(ないし、巻き込まれる)ものだと思う。結果、罪を負ってしまう、と。


この作品もいろいろと思いめぐらされたことがある。特に印象に残ったのはみっつ。

 ・罪に対する意識
 ・タブーの扱い方
 ・学校の意義



■罪から解き放たれるのではなく、自らの一部とすること

まず、忘れてはいけないことがある。それは、罪は消えないということ。今の世の中、過剰なリセット感覚がある。さまざまな場面で見受けられるが、罪に対する考え方にも現れているように思う。クリアできるもの・していいものと、そうでないものがあるはず。罪は、後者にあたるものだ。罪とは、負い続けるもの。


では、罪は消えないまま残り続けるのか。僕は、そのままでは残り続けるものだと思う。どれほどにきれいに洗い流そうとカラダを清めても、ぬぐいとれるものではないのではないか、と。

罪は、拭い去るものではなく、受け止める・受け入れることでおさまるものなのだと思った。自分が犯した過ちを認めること。その事実と真摯に向かい合い、理解し、忘れることなく心にもち続け、自らの行動規範に加えること。

そして、それにしたがって行動する覚悟をもつこと。さらには、その覚悟にしたがったふるまいをすること。そうして生きていくことが、罪から許されることに相当することなんじゃないかと思う。

そして、これこそが、前に踏み出すこと、いや、立ち上がることの本質に近い姿のように思う。



■タブーに触れて波風を立てろ

この作品、舞台は中学校。とあるクラスで起きた「いじめによる自殺未遂」が背景となっている。学校側としては何とか事態を消火させてきたのだが、主人公の臨時教師がこれを蒸し返すことから物語がはじまる。

この教師が、その自殺未遂した生徒(すでに転向している)の机を倉庫から教室にもってくるのだ。この行為に、生徒も教師も保護者も、みな大いに戸惑い、反感を示す。さらには、これを発端にたくさんの諸問題が沸き起こっていく。

こうした様子を観ていて、自分に不思議な感覚があったのが興味深かった。それは(ちょっと言葉に誤解をもたれそうだが)「面白い」というもの。妙なワクワク感があった。皆が嫌がること、でも、そこに本当の意義が込められていることをやっている。意志を揺らがすこと無く淡々と行動する様子に、ものすごく惹かれた。

自分が生徒側にいたら、かなりネガティブな反応を示したかもしれない。中学生の頃だったら考えられることも限られていたから、露骨に反発していた可能性もある。少なくとも、真正面から受け入れられる度量はなかっただろう。

おそらく、現実的に多くの人がそういう態度を示すものだと思う。人が集まったときにものすごく嫌がられることが、蒸し返されることだから。僕自身、そういう経験をしたこともあるし、ちょうど最近そういう反応を受けたこともあった。

そういうとき、人はひるむ。集団を相手にするのは怖い。

だから、淡々と行動する教師の姿に、すごく惹かれた。正しくないことへのゆるぎない新年を持っているからこそできることだろう、と。そしてそれを実際に行動しつづけられる胆力にも惹き付けられたのだった。


世の中、楽しくやりながらうまいこと進められたほうがいい、という価値観がある。これは、その通りだと思う。でも、一方で、ガチンコで向き合い、衝突することも大事だと思う。主人公の言葉が、すべてをあらわしていたと感じた。

「本気で話していたら、本気で聞かなければいけない」

聞いたということは、本気で答えることだ。


タブーとは、自分には手が負えないから触れたくないこと。人を傷つけること、ではない。タブーに触れるのは、世の中の本当を本当に理解するためのこと。ごまかしておいたほうが都合のよい人たちが、そこに波風を立てるだけだ。

だから、そんなものには負けてしまってはもったいない。躊躇せず、本気で取り組めば、道が開けるのだと信じる。



■学校の役割の二面性

この作品にでてくる学校の姿は、ステレオタイプな「ことなかれ主義」だ。でも、あながち間違っていないと思う。こう書くとネガティブだが、必ずしもそうでもないとも思う。学校の役割をどう捉えるか、によるのだと思うのだ。


では、今の学校の役割とは何か。目的といってもいいかもしれない。

僕が思うのは「理不尽への耐性をつくる」というものだ。今の学校はちょっと崩れているところかもしれないが、思想の根幹にあるとは思う(実態として現場がまわせなくなっているだけであって)。

いかに「目的のない要求に愚直に取り組めるか」を鍛える場、という感じだろうか。勉強にしたって、体育で走ることにしたって、その他のあらゆる学校のルールにしたって、きちんとした目的はどれほどあるのか。
※厳密に問い詰めたら、きっと「誰かにとって都合のいいこと」に行き着くのだと思う。

ただ、こうした力は社会に生きるには、大事なものでもある。こうしたことに取り組める人が一人もいなかったら、社会は成り立たない。いわれるがままにしかできないということではなく、「理不尽な要求に耐えて仕事をすることもできる」というのは重宝されるのが実際だ。それができる人しか認められないことだってあるかもしれない。

良し悪しはおいておくとしても、こうした事実を視野にいれたとき、こうした学校の役割がきちんと機能していることは大事なことだと思う。


しかし、こうした状態が、ひとつの相反する意義を奪っているとも思う。それは「目的を考える力を養う」ということ。学校の役割のもうひとつの側面だと思う。

昨今、こうした部分について教育の重要性が説かれているとは思う。実際、取り組んでいる事例もちらほら聞く。実際に成功していることもあるというし、とても素晴らしいことだと思う。

ただ、このさじ加減がうまくいってないようにも思う。それが、生徒・保護者の過剰な要求につながってしまっているように思う。「目的から考える」ことを逆手に取り、自らの過剰(かつ、理解を履き違えた)自由に求めてしまっているように思う。

これは、教師側の責任の回避にもつながっているようにも思う。実態がわからないから推測でしかないのだけど。


いまいちど学校の役割について、本当に考え直す時期なのかもしれない。学校で培うべきものは何か。そのためには何をしたらいいのか。それは、学校だけで考えるのではなく、家族と地域、あるいはもっと大きな単位もすべて含めてデザインするべきなのだと思う。



すべてについて答えまで書かずに(というか書けずに(^_^;)終わっているのは微妙なところですが、まずは感じたこと・考えたことを書き残しておくことにしました。

すごく静かな映画ですが、内容から得られる影響は十分に大きなものだと思います。

自分の心を痛める何かがある方は、この作品を通じて何かを得られることもあるかもしれません。すべての世代の人にとって、鑑賞に値する作品だと思います。