トウキョウソナタ

人生、生きることについて考えさせられる映画だった。

会社一筋に頑張ってきてリストラされた父、自分の意志を自由に選択して生きる兄、才能を持ちながらもまわりへの気遣いから発揮できずにいる弟、そうした家族を愛情をもって接しながらもどこかに疑問を抱えている母。
そうした家族を中心に、それぞれに似たような悩みを持つ人々と関わりあいながら、その瞬間旬かを生きていく。行く末に見るのは、希望でもあり、絶望でもある。不安にさいなまれながらも、どうにかして一歩を踏みしめる。そこにあるのは必ずしも安堵ではないが、前を向き続け、歩んでいく。


この作品、読み解こうとすると、けっこういろんなものが混じっているのだと思う。黒沢清好きの映画フリークが語りだしたら、勢い止まらずに話し続けられるのかもしれない。

でも、僕が受け止めたメッセージは、とてもシンプルなものだ。それは「生きる」ということ。ただ、シンプルなだけに難しいという背反性をもったものでもある。生きるとは、「やりたいこと」「できること」「やるべきこと」の積み重ね・組み合わせ。前者ほど「それは何か?」を自分自身で気づけないことが多いものだと思う。

生きるための、行動するためのいちばんシンプルなきっかけは、やりたいという気持ち。また、揺るがない限りは、この気持ちがいちばんのエネルギー源にもなる。なんだけど、なかなかうまくいかない。自分自身の気持に気づくことは、簡単なようで難しい。難しさの根源は「まわりの目」と「気づくことで失うこと」にあるのだと思う。実際に取り組んだとき、今までうまく運んできたものが、大きく崩れてしまうかもしれないという不安。大切な人たちを巻き込んで迷惑をかけてしまう怖さ。
そうしたものを振り落とすには、うまくいくことを信じられることが必要。良し悪しは置いておいても、盲目的にでも信じぬくことができたら、とても強い。そのうえで、それに向けて動くこと。

とはいえ、世の中、やりたいこと以外のこともたくさんある。特に、人との関わりにおいては、できることを期待されることも多い。自分に何ができるのか。
生きるうえで、ギャップに苦しむいちばん大きな部分は、ここにあるような気がする。自分ができると思っていることと、まわりから期待されていることと、実際に自分ができること。
特にやっかいなのが、やりたいことと比べて、まわりと比較する(される)機会を得やすいということ。重いと期待と現実のギャップが少なかったとしても、それが全体としてみたときの相対的な位置づけが満足できるものかどうか。

やるべきことについては、あまりポジティブな方向にチカラが向かない使われ方が多いかもしれない。
「やりたいこと」「できること」の弱い状態にあるときほど、「やるべきこと」を振りかざしてしまいがちのように思う。それは、間違った話はしていないのだろうけれど、パワーがない。相手にとって考えや行動を変えたり促進したりするものにはなりにくい。自分自身の心の奥底から、真剣な思いや愛情が伝わらない限り。
やるべきことのいちばん怖いところは、発している内容が本当にやるべきことかどうか、という部分にある。世の中にあるやるべきことは、本当に正しいのか。あるいは、やるべきことといっているけど、本人の都合だけで勝手にいっている言い分になっていないか。「やるべき」という言葉にかこつけているだけで、実が伴っていないことになっていないか。


答えは、僕自身はあまりよくわかっていない。映画でも、これといった答えが示されているわけでもない。それぞれについて悩み、試行錯誤しながら生きていくことそのものが、人生における答えなのかもしれない。
いずれにしても、この作品を見ることで、今を生きることの意味を振り返る機会になると思います。それは、痛みもあり、面白くもあり、哀しくせつなくもあり、幸せなものでもあります。今の生活にブレーキを感じることがあったら、ぜひ鑑賞してみてください。



なお、この作品。終盤で僕が黒沢清監督作品に共通的に感じる大胆さがあった。このあたり、魅力でもあるのだけど、とっつきにくさでもある。僕も自分の解釈は監督本人の意図ではなさそうな気もしつつ、だとするとどう捉えるといいのだろう、といつも悩んだりする。
ということもあって、終盤全体でみると、後味は複雑になりそうな気がする。好みによっては、ちょっと受け入れにくいかもしれない。混乱するというか。
でも、結末の後味は、悪くないはず。頭がすっきりしないまま残る展開もあるかもしれませんが、それを踏まえても、「す〜っ」とした安堵感を得て映画館をでていけるんじゃないかと思います。