コドモのコドモ

映画「コドモのコドモ」をみてきた。

小学生の妊娠というインパクトのある内容。上映開始前後は、いろいろと記事でも話題になっていた。

といっても、物語そのものは衝撃的なものではない。以前テレビドラマで放映されていた「14才の母」のような、問題を前面に問いかけてくることはない。
映像としては、もっとファンタジー感が漂っている。悲壮感や辛苦が押し出されることなく。


この作品、ファンタジー感が漂う描かれ方をしているわりに、けっこう現実に即したところが多い。学校で起きる先生や生徒、あるいは保護者たちとの軋轢。あるいは、子供が生まれる様子。けっこうリアルに描いている。
ところが、主人公の女の子の妊娠している様子(と、そのまわりにいる人々の反応)に限って、すごく現実から離れている。これがこの作品独特の世界観をつむぎだしているのかもしれない。その一方で、観客としてみたときに入り込めない要素にもなりうる。

僕にとっては、入り込みにくい要素としての印象が強かったかもしれない。「どうして、この人たちはこういう風に過ごしているのだろう?」という疑問を抱いてしまったので、それが解消されないままに話が進んでいったような感じ。


とはいえ、けっして気持悪いものではない。子供たちが懸命に過ごしている様子を、なんとなく保護者になったような心持で眺めている、そんな見方ができる映画だったように思います。



それにしても、この作品、とらえどころが難しい。実際、見終わったとき(というか、鑑賞しながら)、感想以外のことに頭が向かっていた。

それは「小学生の子供が、子供を産む。これ、現実として考えたときにどうなんだろう」ということ。


自分の身近に小学生がいたとして、その子が妊娠したといってきた。自分は、どうするだろうか。

絶句して何も反応できないかもしれない。子供が真っ先に嫌いになりそうな「とにかくダメ!」という反応をしてしまうかもしれない。さすがに「よかったねぇ」とは言えないと思うが、そうした場面に直面したらどうなってしまうだろうか。


現実的なことを思うと、おそらくは、考える。

 ・本人が望んでいるかどうか?(出産・育児への思い・希望、機会を失うことへの覚悟、・・・)
 ・無事に産み、育てることができる素養があるか?(本人・子供(能力、健康、費用、・・・)、医療・・・)
 ・まわりに認めてもらうことができるか?(家族・友人、学校、地域、マスコミ、法・・・)

といった感じだろうか。



考えることを決めたにしても、きっと悩む。

ひとつは、「小学生が母親になる」ということを、どれほどリアルに想像できるか。常識めいた思考の枠組みや社会の慣習をもとに、それらしいことを導き出すことはできるかもしれない。でも、それって役に立つのだろうか。正直、やってみないとわからない、くらいの感覚もある。

もうひとつは、理屈を超えた心情。極端な話、考える前に心理的に答えを持ってしまっているのかもしれない。



いずれにしても、いちばんに望ましい答えを導き出したいとは思う。
「望ましい答え」は、事情や状況によって異なるだろう。その都度その都度、最終的にいちばん幸せ度が高い選択を選べるよう、少しでもそれに近いものを見つけられるようにしたい。


そうすると、「まわりに認めてもらうことができるか?」は考えなくてもいいのかもしれない。本人が望んでいて、健康や環境に不備がないのであれば。そのときは、「認めてもらうには、あるいは支援してもらうには、よい関係を築いていくには、どうしたらいいか?」だけを考える。


悪意を持って人に迷惑をかけることをしているわけではないことには、みんなでチカラを貸しあうような社会にする。そういう風に考えて行動できるように、普段から意識・心がけを高めていきたいところです。