アキレスと亀

北野映画最新作、見てきました。

この作品、予告編をみたときに、名作のにおいがした。タイトルと映像をみた瞬間の直感なので、理由はよくわからない。でも、良い作品だろうという確信があった。

その後、ベネチアで上映されるということをきいて「やっぱり」と思っていた。ところが、(日本のマスコミによる報道の仕方が悪かったと思うのだけど)前評判は受賞につながらなかった。そんなこともあって、ひょっとしたら作品の内容も・・・、といった不安を感じたときもあった。


実際に見て思ったのは、この映画はまちがいなく良い。北野映画を観ていない僕がいうのははばかられるのだけど、個人的には北野作品のなかでいちばん好きな気がする。

作品の良さは期待通りだった一方で、内容についてはちょっと想像とちがっていた。観る前は家族愛を前面に押し出した作品なのかと思っていた。しかし、実際に見てみると、「描かれているけど、作品のテーマのひとつに過ぎない」という印象だった。

僕がこの作品に対していちばん強く感じたことは、「たけしの厳しさ」だった。
それは、猟奇的なものを指しているのではない。アートと呼ばれるものに身をおく人々に対する「お前がやっているものは、なんなんだ!」という痛烈なメッセージ。


■「才能」と「好きなこと」は違う
好きであることは、人にとってとても大事なもの。しかし、そこに才能があるかどうか。人生の大半をかけて、それ以外の多くのことを手にすることを代償にして取り組む。しかし、そこまでして取り組んだものに、自分の才能があるかどうか、それは別の話だということ。
好きなことをやっている時間が長いことは幸せだからいい、ということもできるかもしれない。それを否定しているわけではなく、才能とは話が別ということ。


■「才能」には習得が伴う
才能というと「生まれ持ったもの」という印象がつきまとう。おそらく、それはまちがいない。先天的に兼ね備えたものだけを指しているのではなく、そのときに属しているまわりの環境も含めている。
しかし、それだけでいくことは相当に難しい。自らの思うがままに、ありのままを表現するというのはとんでもなく高い技術が必要。このためには、自らの才覚だけに頼るよりも、先人によって積みあげられてきた知見を利用したほうが効率的。というか、それをやらないと人生で到達できる地点までの距離が大きく短くなってしまう。


■「才能」とは自分以外が決める
「自分には才能がある」、そう信じられることは生きるうえでの大事なエネルギーになる。いっぽうで、才能があるかは自らは決められない。才能とは評価だから。世の中の誰からも価値を理解してもらえないことは、「才能」とは呼ばれない(蔑まれてしまうかもしれない)。
世間の評価なんてどうでもいい、そういう捉え方もある。しかし、その場合、「才能」という言葉があてはまらないのだと思う。



自分の好きなことには、自分に才能がある。それに向けて一生懸命に生きることで、そのときどきを満足に過ごし、いつか報われるときが来る。諦めずに、そう信じる。これが本当に本人にとっての幸せなのかどうか。大いに考えさせられた。

この作品では、こうした問いかけともとれる場面が数え切れないほどに繰り返される。これは、たけしが自分自身への自虐を込めたものも含めて、芸術という括りで活動するすべての人間に対して投げかけているように感じた。いかにして向き合うのか、と。


こうした感想をもった上で、思ったことがふたつある。

ひとつは、人は才能を認められたことを実感したい、ということ。もうひとつは、最後の花火だけで一発逆転することはない、ということ。


おそらく、人は「才能を認められなくて良い」とは思っていないと思う。さらにいうと、それは少しでも多くの時間を認められた状態で過ごしたいと願っているのではないかとも思う。大器晩成であったり、後世で高い評価を受ける、ということは次善の策。
今個の世界で自らの才能が輝いた瞬間、そのときにそれに見合うフィードバックが欲しい。それが、人の本心ではないだろうか。


また、次善の策も簡単ではない。特に、大器晩成は難しいと思う。
人生において才能に対する評価を受けていなかった人が、最後の瞬間に光り輝くことができるか。正確に言うと「それまで認められなかった人が最後の瞬間に輝いても、観てくれている人がいない」という状況になってしまうのではないかと思う。



だからこそ、あらためて「目利きできること」の重大さを認識した。
自分が生きていくなかで接する機会のある人すべて、どれだけのことがわかるだろうか、できるだろうか。外見と名前しか知らない人もいるかもしれない。話すのが辛いエピソードまで共有している人もいるかもしれない。
ただ、そうした理解の深さにとらわれることなく、相手の才能をどこまで気づくことができるか。あらゆる機会を通じて発見につとめ、把握し、フィードバックする。こうした役割を担うことが、人との付き合いとして価値を高めることのひとつだと思った。



最後に、もうひとつ考えたこと。
幸いなことに、自分自身の気づき、あるいはまわりからのフィードバックを通じて「自分の才能」を知ることができたとする。しかし、それが「好きなこと」とはちがっているかもしれない。そのときはどうすればいいのか。

これにはけっこうあっさりと思い浮かんだことがあった。それは

「好きなことにつながるように考える」

ということ。


好きなことは価値観であり、才能はツール。ツールは活用方法さえ編み出すことができれば、価値観に合う使い方ができる可能性がある。それを探り出す。
もちろん、簡単には見つからないかもしれないし、見つけられない可能性も否定できない。でも、かなり多くのケースでは、見つけられるんじゃないかと思う。このあたりは、それくらい楽観的に取り組むことで、うまくいきやすい気がする。



なんか、書いていていまひとつ「しまり」のない文章になってしまった・・・(-_-;
感じたことをうまくまとめるのが難しい、それくらいいろいろとつまった作品だと思います。

少なくとも、僕は眠気が吹き飛びました。強烈なインパクトで考えさせられた。
しかも、笑いのエッセンスも、ところどころに詰め込まれている。正直、このあたりは、他の映画監督がつくる笑いのシーンとは、根本的に質が異なる気がするくらい面白い。


ポジティブなエネルギーや、あたたかい感動を得られる映画ではないと思います。でも、生きることを考えるにあたって、悲哀の視点から考える機会につながる作品だと思います。「おくりびと」とはある種対象的な作品なので、両方を観ることで得られるものが増幅されるかもしれません。

なんにしても、やはり、たけしはスゴイ。