20世紀少年(2)


昨日は「良い」と感じたことを書いた。

いっぽうで、こういう作りをしたことの難しさを感じたのも事実。作品の出来がよくない、ということにつながる感想ではないです。
僕が感じたのは、超高品質の原作物を大きな予算をかけてつくることの難しさ。

難しさを感じたことはふたつ。
ひとつは、最高の個々を集めて、最高の全体をつくりあげることの難しさ。もうひとつは、漫画の絵とフィルム映像の境界は隔たりがある、ということ。


今回の作品、まちがいなく個々の要素はすごい質が高いと思う。原作についてはいうまでもないし、各役者や監督についても十分だと思う。しかも、全3部作で60億円という大量の予算をかけている。おそらく、日本映画の中でも、揃えた要素の高さは、有数のものになると思う。


なのだけど、僕の印象として、それに匹敵するほどの素晴らしさを味わい尽くせたかというと、そこまでは至らないのだ。まちがいなく良い作品なのだけど、揃えたパーツのクオリティを、足し算ないし掛け算したほどの感想ではない。


この感想に気づいたとき、最初に思い浮かんだことは「関係者の都合が多すぎて調整がつかなくなった」という印象。利害関係者が多くなりすぎて、かつ、その関係者の関わる度合いも大きくなりすぎて、バランスのとり方がものすごくシビアになってしまったのかな、と。



漫画と映像の境界については、特に考えさせられた。これだけ近づけても、衝撃を受けるほどのレベルでもないんだな、と。


境界にある隔たりは何かと考えてみると、読者のイマジネーションにあると思った。
漫画を読むとき、漫画にあるイメージと現実世界の映像を、微妙につなげるよう補完しているのだ。それは、意識していない部分が多いと思うのだけど、自分なりの世界を頭の中に描き出している。


ただ、ここでつくりあげられるイメージは、リアルな映像とはずいぶん離れているのだ。どこかしらで都合よく現実を外した解釈が入る。というか、映像化するのに都合の悪いことは適当に調整してつくりあげている。


おそらく、これは人間の想像力のたくましさ。なのだけど、実際に「万人に共通の映像にする」となった場合、これを具現化する必要がある。個人がイメージすることが困難でごまかしている部分も描き出さないといけない。こうして描かれたものは、相当に出来がよくないと、自分のイメージと比べて見劣りしてしまう。頭の中で抽象的にとらえているだけの世界は、おそらくどんな具現化された映像よりも高品質に思える姿になっているから。



他にも
 ・原作に似た俳優にこだわりすぎて、映画の本質から外れた
  (見た目に比べて演技がはまっていない人物がいたと思う。特に、子役はうまくはまってなかった気がする。この作品、子役の役割がすごく大きいので、この点で削られた魅力はけっこう大きいと思う)

 ・衝撃的なシーンが衝撃的になりすぎた
  (重要な展開の景気として出血する場面が多いのだけど、今回のようなリアル感での映像だとけっこうショッキング。作品の世界観からリアル感へ一気に引きずり込まれてしまう)

といったことも思った。


このあたり、デスノーとや他の作品を見ても同じように感じたものだった。ただ、この映画くらいのレベルまで入ってくると、際立ってしまう。そういう意味でも、この作品は良く出来ていたのだと思う。



最近特に思うのだけど、技術の進歩で「以前はできなかったけど、今はできるようになったこと」が、人間の能力を抑えてしまっている面が強まっている気がする。
それはおそらく、抽象化する力。
強烈にリアルで壮大な世界観を、どれほどまでにシンプルな構造に捉えることができるか。そのように作りこまれたものを理解できるか。


今作られている多くの作品は、とても量的にも時間的にも短く簡単な方向にニーズが流れている。これにあわせて作る側も流れている。それは、どうしても悪い方向への循環となってしまっていると感じられる。


そういう流れがあるのもいいけど、過剰に優勢になってはまずいと思う。
僕は自分が学校に通っていた頃、松尾芭蕉の俳句のよさがさっぱりわからなかった。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
この俳句にこめられた世界観の大きさ、この壮大な世界を17文字の言葉に集約させることができた芭蕉の想像力・表現力の豊かさ。いずれにも、感銘を覚える。


こうした感覚を、小中学校の「実際に勉強しているその瞬間」に味わうことができる、そういう教育や社会が望ましいんじゃないかと思う。


ちょっと話がそれていきました…(^_^;



この映画、原作を知っていても知らなくても、いずれも楽しめるものとなっていると思います。人気も上々のようなので、話題作をおさえるという意味で観にいくのでも十分ありだと思います(^_^