ダークナイト

ひさしぶりに同じ映画を2回鑑賞した作品。
理由はふたつ。ひとつは、内容のすごさ。もうひとつは、一回ではわからなかった。

この映画の深さは、2回観たあとでも、同じような印象が残っているということ。2回目の鑑賞でも面白かった。内容のすごさを感じた(前回と同様に感じたこと、前回ではわからなかったけどあらためて感じたこと)し、あいかわらず理解し切れなかったような感覚も残っている。


最初にみたときは、自分の調子が良くなかったのもあって、あまり頭が整理できなかった。すごい内容だったので、ひとまずパンフレットは購入。中をちらっと読んでみたら「選択」というキーワードを目にした。
これは、けっこうこの作品の核だな、と思って、パンフレットはそれ以上見ないことにした。もう一度鑑賞してから、見直すことにした。自分なりの感想が頭にできあがらないうちにパンフレットを見ると、その内容に流されてしまいそうだったので。それくらい、整理がちょっと難しい印象だった。


この作品、主題は(理解の難しさの割りに)意外とはっきりしている。パンフレットの言葉を使えば「選択」。僕の頭に浮かんだ言葉は「二律背反」や「表裏」。実際は、物語の中で使われる「光と闇」という表現がいちばん正しいようにも思う。


このテーマについて、物語の最初から最後までぎっしりと詰め込まれて展開する。
最初のほうに現れるエピソードは、比較的軽い。どちからというと社会に近い側面(組織であったり、社会上の役割であったり)が描かれている。実社会で考えると重い出来事なのだけど、この作品の中では序章に過ぎない。

このあとに、少しずつ積み上げられていく事件。ひとつ現れるたびに、人の「素」の部分に踏み込んでいく。それは、本音であり、本性であり、本質である。そこには、普段みられる表側の姿と一致するものでもあり、完全に別な人間ではないかと思えるほど間逆な要素もある。そうかと思うと、その奥には、普段みられる本人と同質の様子があらためて見えてきたりする。

人には、複数の顔がある。阿修羅の表情のように、いずれも本人のものであるのだけど、まわりからみると、とても本人とは思えないようなほど多面的な要素を持っている。


この映画の強烈さは、そこに「善悪」を詰め込んだこと。人の要素には、すべからく善と悪が潜んでいる。思考・志向・嗜好。意識や行動にいたるまで、あらゆることに善悪が絡んでくる。極端な言い方をすると、この善悪のバランスの度合いが、個性とも密に関連しているとさえ思う。


作品に出てくる登場人物は、みな「善悪」に振り回される。あるいは、振り回す。
「善」対「悪」のわかりやすい構図が、振り回し振り回されるうちに、単純な図式から大きく崩れていく。個人の善悪のバランスが崩されていくことで、全体の善悪のバランスが保てなくなる。そして、破綻し、おさえられなくなったものが事件として悲しい結果を残してしまう。


映画の世界では、ジョーカーという「悪のみで構成されている存在」がいることで、これほどのバランス崩壊が起きた。しかも、このジョーカーには、「純粋さ」が備わっている。悪に関して、純粋なのだ。戦略を練ることも、権謀術数にも長けている。そのうえで、自分に備わっている悪をあますところなく発揮する。この点において純粋なのだ。
だから、ジョーカーの行動には迷いが無い。彼が誰かと関わっているとき、そこには野心は感じられない。まるで、子供のように純粋な振る舞いさえ感じるのだ。だからこそ、思い知らされる。その恐怖の影響力の強さ、怖さを。

実社会にもジョーカーが存在した場合、同じことが起きる可能性は十分にある。そうした恐怖が、この作品のすごさのひとつだと感じた。



そうしたなか、各人物たちは、多くの場面で選択を求められる。しかも、ただの選択ではない。二律背反の選択。決して、Win-Winにならないよう綿密に計算されつくした選択を突きつけられる。
あるときは、切羽詰った中で勇気を振り絞って選択し、大きな禍根を残してしまう。あるときは選択した結果が大成功につながるが、すぐに最悪の結果にいたる伏線だったことに気づかされる。あるときは選択を放棄し、逃避を試みるも、結局は悲壮感を味わう。

選択にさらされた自分がとった行動が、あらゆる不幸につながってしまう。こうした巧妙な罠にはまりつづけることで、自分を見失い、まわりを信じることが出来ず、自らの奥底に大事に育み続けていた「善」を曇らせてしまう。

人生は選択である。似たような言葉は多くの場面で聴く。しかし、その多くは「失敗は悪くない」という前提がある。この作品に描かれている世界では、それが成立していない。ここに大きな恐怖がある。失敗は、自分にとって最悪としか考えられない結果を招くのだ。
こうしたなかでいき続けることは、決して容易ではない。にもかかわらず、それ以上の「戦い」として、さらなる選択を突きつけられ続ける。
自分自身、こうした中で活きなければならなくなったときに、その運命をあきらめずに受け入れ受け止め続けられるか、正直なところ自信はない。


ただし、こうした中でも、希望も示されている。
ひとつは、大勢が悪であっても、個人の奥底に潜む「善」に光をともすことが出来れば、跳ね返すことが出来ること。おそらく、性善説が社会で成り立つ本質だと思う。
もうひとつは、「善」を成立させるには、「悪」が必要という事実を受け入れること。悪者がいるからヒーローが成立するという短絡的に思えることも、実は正しいということ。さらには、真実を知らないものには「悪」にしか見えない物事であっても、「善」によってつくりあげられることもある、ということ。

バットマンは、ここに記した希望の象徴。多くのヒーローとは違い、悪者以外の要素こそ、存在意義の迷いにつながる壁となっている。
そしてそれは、僕のようなただの一般人が生きていくうえでも、度合いがあまりにも違うとはいえ、十分に通ずるものがある。バットマンほどの強靭な肉体と精神は持ち合わせていないけれども、自分の身に降りかかるであろう「善」と「悪」のものごとに対して、自分自身んおなかに潜む「善」と「悪」を適切に制御して乗り越えて生きたい。
そして、そうして得られる行動が、他の人にとっての希望に通ずるようなものとなるように。