デトロイトメタルシティ

人によっては、DMCの略称のほうがなじみがあるかもしれません。

僕は原作の漫画を読んだことが無い状態で鑑賞してきました。原作のイメージにとらわれてしまうと、どうしてもバイアスがかかってしまうので。


という状態での感想。なかなか面白かった。
夢と才能のギャップというテーマをわかりやすく表現していて、かつ、きちんと笑えるコメディ要素もあるという。


この作品では、おしゃれな渋谷系にあこがれる青年が、デスメタルの才能にあふれているというズレが根幹にある。物語上は、このギャップを軸に、面白おかしい展開であったり、ちょっとほろっとさせるような流れであったり、気持ちのいい内容が織り込まれている。


この「夢と才能のズレ」というのは、この映画ほどわかりやすくないけれども、世の中の多くの人が何かしら感じたことがあるんじゃないかと思う。イチローや中田になりたいスポーツ少年、ジャックウェルチやグーグル創業者になりたい経営者、パリスヒルトンになりたいセレブ志望、などなど…。


でも、現実問題として、それは「無い」。なりたいことと、なれることの違いは必ずある。これがネガティブな側面に向かうと「どうせ自分なんて…」という志向につながってしまったりもする。あるいは「なに夢みたいなこといってんだ」という口癖を持つようになってしまうのかもしれない。


これは、「夢」の捉え方がよくないのだろうと思う。
イチローみたいになりたい」といって野球を好きになり、練習に打ち込み、プロを目指す。これも、ひとつの夢の姿。特に、最初の段階では、こういったシンボルがあったほうがわかりやすくていい。


「夢」をとらえるとき、このままで突き進まないようにすること。「イチローみたいになりたい」というのを、「イチローのどういう側面に対していっているのか」と「それはどうして欲しいのか? どういうことを得たいのか?」というところまに掘り下げることが必要なのだと思う。


このあたりの感覚を意外と誤解しやすいところで、「夢」や「理想」という言葉に壁や抵抗感を感じるのかもしれない。僕自身、そういう傾向があることを振り返ると、そんなような気がする。



では、才能が「自分のやりたいこととは別なこと」であったら、どうするか。
ひとつは、上に書いた「夢の別の捉え方」を踏まえることで、「才能と別なことではない」ものに解釈できないか・つなげられないか、を考える。


もうひとつは、自分の才能を信じてみる。
なかなか気乗りしないかもしれないけど、せっかく持っている素養があるのだから、生かしてみる。それは、人に役立つものかもしれない。


とはいえ、自分がどんな才能を持っているのか、というのは案外難しい。正直、僕自身、「自分の才能って何だろう?」と思案し続けているぐらいだし。


このあたり、映画DMCでは「まわりに教えられる」ことで気づく姿が示されていた、
実際のところ、これが正解なのだと思う。才能って、自分自身で判断するのではなくて、「まわりの人が認めてくれたこと」を才能だというのだろう、と。


テストや試合で優秀な成績が残せたり、他の誰にも真似できないようなことができたり、わかりやすく人からほめてもらうことで気づくこともある。あるいは、家族のちょっとした感謝の言葉であったり、暗黙の了解的に頼りにされたり、自分自身では気づきにくいようなこともあると思う。


いずれにしても、自分の中にある人から求められる素養であれば、発揮して間違うことは無いと思う。それは、DMCの主人公のように本人にとっては苦痛に感じられるようなことかもしれない。でも、それでも、人の役に立っている。

それは、必ず、どこかのタイミングで、自分自身の実感として還元される。そのとき、夢が才能のほうに歩み寄っていけば素晴らしい。まだギャップは残っていたとしても、才能の実感を感じた上で考える夢や夢へ向かう道は、きっと以前とはちがっていると思う。


DMCはこのあたり、コメディらしく締めていた(^_^
でも、きっと、映画の終わりの先の世界では、新しい一歩を踏み出しているのだと思う。
現実の世界でも、自分なりに一歩を踏み出していこうと思う。



いろいろ書きましたが。
クラウザーさんは普通に面白い(^_^
これだけでも、観て楽しめると思います。