実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)

若松孝二監督の作品。
http://wakamatsukoji.org/


撮影が始まったころ(1年半くらい前)に、この映画を撮っているという話を聞いて、公開されたら見ようと思っていた作品だった。


観終わった感想として最初に浮かんだのは、「すごい」という言葉。
この映画をつくった若松監督はもちろんのこと、出演していた役者陣の演技も見ごたえがあった。そして、何よりもこの映画の登場人物たちが実在していた(る)ということが。


この映画の時代背景について、僕はあまりにも知識が不足しすぎている。だから、そのことには、ここでは触れないことにする。でも、事実・史実としての意味合いのほかにも、映画から受け止めたことはたくさんある。こちらについて、書き留めてみたい。



映画から印象に残ったフレーズは、二つある。
 ・自己批判、総括
 ・勇気


ひとつめの「自己批判、総括」は実際の活動で頻繁に使われていたのだと思う。もうひとつの勇気については、若松監督がこの映画を通じて伝えようとした演出的な意図も込めた言葉だと感じた。


自己批判、総括」とは何か。実は、映画の中でも(おそらく現実の活動においても)正式で明確な定義はなかったのではないかと思う。これは、活動が続く中、刻々と変化する状況に応じて行動意義がぶれていくことで、結果的にそうなっていったのだと思う。
そんななか、僕はこう解釈した。


自己批判・総括とは、活動に取り組むにあたり、純度を高めるための一手法」ということ。そして、これがゆがみはじめ「階層を保ち続けるための規範」と変化していったのではないかと思う。
もともとは、「過去の失敗に対して自省し、その反省と対策の弁を公開することで自他共に規律を高める」こと。教育の場(学校・家庭どちらも)において行われていることの延長と思ってよいと思う。
ところが、これに対して懲罰的意味合いが強まってしまうことで、「同じ方向を向くための規律」ではなく「飛び出る可能性のある杭を打ちつけるための規律」にかわってしまった。


この映画に描かれているような活動では、暴力性が含まれていることで、比較的問題がわかりやすくみえる。しかし、すべての組織において、規律を守るに当たっては少なからず同じ問題を抱えているとも思った。暴力のように、誰が見てもあからさまに異変を感じ取れるようなわかりやすさがない分、根深いかもしれない。


自己批判し総括する」という行為は、目標管理やプロジェクトの終了にあたって大事なプロセスだと思う。しかし、ここに、組織都合による誤った目的を混ぜ込むような運用をしてしまうことで、大きな間違いにつながってしまう。昨今社会をにぎわせている問題や、日常的に実感する微小な課題も含めて、気をつけなければならないと思った。




「勇気」については、上述したような状況下において、公正を維持する・道を戻すために必要ないちばん大きな要素として受けとめた。このこと自体は、映画の中ではとてもわかりやすく盛り込まれる脚本・演出となっている。ただ、このメッセージが意味する本当のところ、深い部分を理解するのは難しいと思った。


勇気をだすことが大事なのは、おそらく誰もがわかっている。でも、できない場面がたくさんある。振り絞れないのは、怖さがあるから。
では、その怖さはどこからくるのか。状況やら何やらで、いろいろな要因が考えられると思う。しかし、つきつめていくと「孤立すること」にたどり着くような気がする。単に孤立するだけの怖さもあれば、孤立することで待ち構えている悲惨な結果を怖いと思うこともある。

こうした怖さは、誰かが味方してくれれば緩和されるかもしれない。もっというと、みんなが団結して多数派になれば(数上だけではなく、力関係的に)、かなりなくせるのだと思う。それに、公正なことに向かおうとしているのであれば、多くの人が賛同できる。でも、なかなかそうならない。


それを左右するのは、信頼関係なのだと思う。正しいことに取り組むのであれば、みなで協力し合える、ということへの信頼感。この信頼感を持つためには「我が身かわいさ」と「自らの正しさ」を乗り越えておかなければならない。ここが、大きな山なのだと思う。


「我が身かわいさ」が頭をよぎる限り、いつ自分が裏切られるかわからない。あるいは、自分が裏切ってしまうかもしれない。また、「自らの正しさ」を信じることができなければ、まわりが賛同視してくれるかどうかわからない。


「勇気」をもつということは、自他共に認められる存在になること。そのためには、「自己批判、総括」ができること。というサイクルの関係があるように思った。




映画の登場人物たちは、みな20代(一部、10代も混ざっている)。ある種、江戸末期や明治維新のころの活動家たちと似たような年代。
それに比べて、僕はどうだろうか。生活については当時とは比較にならないほど恵まれている。でも、当時とは内容は違うにせよ、同じくらい真剣に取り組むべき社会的な課題はたくさんあると思う。
そんななか、これといった活動は起こしていない。正直、起こそうともあまり思っていない。


それは、豊かで平和で、平穏に暮らせる世の中だからだ、という安易な発想で済ませてはいけないと思う。きっと、多少なりとも、そういった事態から逃げているのだ。


ただ、僕が取り組むときには、過激な活動を選択肢に選ぶことはない(と信じている)。行動の結果あたえられるインパクトは弱弱しいものしか残せないかもしれないけど、それでも別な方法を選ぶ。


僕が選択したいことがあるとすれば、それは「群集を導く」役割ではなく、「個々人にエネルギーを与える」役割だと思う。blogのように文章を通じてかもしれないし、一人一人との対話を通じてかもしれない。やり方も内容も、いまはまったく想像もつかないけど。


この映画を撮影することは、若松監督にとっての使命のひとつであったことは間違いないと思う。
僕が何をするためにこの世の中に生まれてきたのか。いつになるかわからないけど、その手ごたえをしっかりと噛み締めることができる人生を送りたいと思いました。


もう少しだけ書いておきたいことがあるので(^_^;



ひとつは、役者に対する感想。特に印象に残ったのは二人。
一人は、ARATA。僕が記憶にあるのは、ピンポンくらいだった。あの映画での演技も良かったと思っていたのだけど、この映画では「別人じゃないの?」と思うほど違う一面をみせていた。それは、この作品で、若松演出であればこそ、という部分もあったかもしれない。それにしても、このARATAの雰囲気の違いにとても驚いた。


もう一人は、坂井真紀。以前、若松監督が「坂井真紀なんて、どうしてもこの映画に出たいっていって(以下、略)」という話をきいたことがあった。今回の演技は、それに見合うことを感じた。
そして、何より、この人、あらためてきれい・かわいい人だと思った。映画出演者は、基本的にノーメイクにさせたという若松監督の談話をどこかでみたことを考えると、ちょっとすごい。
坂井真紀って、YOUとかと同じようなポジション・スタンスにいる気がしていて、どちらもバラエティも演技も見事にこなす面白い存在だと思う。



で、もうひとつ。赤軍関連については、「RED」という漫画も読んでいて(まだ、単行本の1巻を読んだだけですが)、こちらはまだ続くので、またあらためて思ったことを書くような気がする。


と。これまた長い日記となりました。
ただ、それだけの思いのつまったすごい映画だと思います。