さよなら。いつかわかること

自分の大切な人に、悲しい真実を伝えることができるか。


この映画では、8歳と12歳の娘に「母親が亡くなったことを伝える」ことができず、迷い戸惑い苦悩する父親の様子が描かれている。


映画を観ながら「自分がこの立場にあったとき、どうしただろうか?」と考えた。


自分にとって何よりも大切な相手に伝えたら、間違えなく悲しむであろう事実。目の前に相手がいる状況におかれて、実行することができるだろうか、と。
正直、映画の父親と同じように、その場から逃げてしまうかもしれない。自分自身でさえ辛い状況であるのに、その上、さらに大切な相手に悲しまれてしまったら、いたたまれなくなってしまうと思う。
そんなことが頭をよぎったら、反射的に、その場を取り繕う言動に走ってしまうかもしれない。



でも、それは、きっと望ましい選択ではないのだと思う。
だから、一歩引いて考えてみた。



まず、そもそも、なんのために「母親がなくなったこと」を伝えるのか。


思ったのは「母との思い合いを大事にして育って欲しい」ということ。
今の年齢までに積み重ねられた「思い」「思われた」思い出は、ただでさえ時間が少ない。さらに、幼い頃の記憶は危うい。この瞬間から、母親が亡くなったことを知るまでの間が空けばあくほど、その分だけ思い出を固められる内容が薄まってしまうかもしれない。
であればこそ、そうした思い出を、一刻も早く大事にとどめて欲しい。そう思った。



では、何を伝え、何を理解してもらう必要があるか。
・もう、母には活きて会うことができないということ
・これまでの生活で、母とお互いを大切な存在として思い合っていたこと
・自分たちは、母の分まで、長く幸せに生きていくことが望まれていること


これらについて、最もよく理解してもらえる具体的なことを伝えられることが大事だと思う。



そのためにも、普段から子供たちと接するときに
・タイミング
・リレーション
・シチュエーション
を意識しておくことが大事なのだと思う。
コミュニケーション、スキンシップ、あらゆる触れ合いについて。


常日頃からこうしたことを意識して(できれば無意識に、こうしたことが配慮できるようになっているのがベストだと思う)接することで、苦しい・悲しいことが突然に起きても、少しでも正しい対処に取り組めるようになれるかもしれない。
これは、伝える側だけでなく、伝えられる側にとっても、同じことが言えると思う。



僕自身は、まだ子供がいないので、かなり想像で書いています。きっと、子育ての現実を知ると、そんなこともいってられないこともあるのでしょう。
でも、何があるのかは、わからないものです。残る立場になるのか、逆の立場になるのかも。
だからこそ、一日一日を大切に生きていくことが大事なのだと思いました。