ガチ☆ボーイ


タイトルと映像だけみると誤解しやすいこの作品。
実は、面白く、せつなく、でもすごくあたたかく、ジーンと感動する映画だった。


記憶障害を持つ主人公が、大学のプロレス同好会にはいるところから物語が始まる。当初は記憶障害であることは隠されていて、行動の節々にそれと思しき様子がちりばめられていく。この秘密は、本人によるあまり望ましくない行動によって徐々にばれていき、それを引き金にまわりを一喜一憂(以上のことを)させていく。


記憶障害という症状自体は、テレビで見たことがあった。正直、それが本人にとってどういう状況なのかは理解できなかった。今回の映画をみてもそうだし、映画のなかでもそういった言葉が出てくる。この映画は、「この病気を理解してくれ!」ということを前面に出していたわけではないからだと思う。



この物語の中では、記憶障害の人にとって「成長」とは何か、どうやって感じ取ることができるものなのか、というあたりが練りこまれている。一度眠ったら、目が覚めたときに眠る前のことを覚えてない、そんな状態で、成長したかどうかをどうやって把握するのか。
映画のなかでは、3つの答えがでていたように思う(記録と体とまわり)。


ただ、これって、実は記憶障害がない人にとってもとても大事なことだと感じた。自分の記憶をもとに気づくことができる成長って、意外と限定される気がする。どんなに素晴らしい記憶能力をもっていても、それだけでは足りない。にもかかわらず記憶に頼って、それ以外の成長を見過ごしてしまっているかもしれない。


ある日を境に記憶を積み重ねることができない。そんなときを迎えることになったとき、主人公の伊藤と同じように、明るく前向きに過ごし続けることができるだろうか? 
そして、記憶という素敵なチカラを持っている自分が、それを有効に、大事に、活用することができているだろうか?
まだ(そして、当面)自問自答が続きそうな質問を与えられた。ただ、少なくとも、この映画を観る前と後では、なにかを頑張ってみようという気分にちがいがある。そう思える作品だった。




映画とは直接関係ないけど、記憶障害となったときに、どういう形で社会生活を送ることができるか、ということを考えてみた。特に仕事面で。
自分がそうなったときのこと、あるいはそういう人が仲間になったときのこと。どういう役割を果たすことができるか、期待することができるか。


頭に浮かんだのは、「サンプル」。商品開発や店舗開発など、新しいものの評価をすることに稀有な能力になるんじゃないかと思った。
商品開発において改良を加えていったとき、できるだけ同じ条件で比較したい。そこに「同じ人物が、毎回はじめて接する」という関わり方で、他の人では生み出せない価値を提供することができるのではないかと。


これがうまくいくのかどうかわからないし、他にももっと適した役割があるのだとも思う。いずれにしても、さまざまな人たちが、その人たちにとってもまわりにとっても最も望ましく、価値を生み出せるような関わり方。そういったものを生み出したり、見つけ出したり、結びつけたりできるようになりたいと思った。