潜水服は蝶の夢を見る

この作品は、良くも悪くも「フランス映画」的な作品であり、ドキュメント的な映画だ。


この作品を見終わって会場をでたとき、車椅子に座った年配の女性がいた。これまでの感覚とは少し違う印象で、目に写す様子を捉えている自分を感じた。

この作品は、生きること、人生の意味が何かを考えさせる。
全身不随になり、まばたき程度しか動作が制御できない人物が、何をもって人生をまっとうするか。たくさんの人間が集う社会、その中のとある個人の物語をつむぐことで、そのありようを描いている。

体の不自由な人がいると、常識的・道徳的に、そして本能的に「かわいそう」という感情がわいてくる。この感情は、少なからず本音だ。だが、それは「当事者ではない立場」でわきあがってくるもの。本人がどう考えているのか、感じているのか、それはわからないものなのだ。

この感覚は、当事者にとっても「その状態になった(気づいた)最初のうち」は同じように持っているものなのだろう。この作品の主人公も、「自分が閉じ込められた潜水服」を理解できず、とまどい、怒り、嘆き、さまざまな葛藤を強いられる。それは、自分の周りで世話をしてくれる人が接してくることで、本来の「親切」「感謝」といった関係性とは逆の印象でとらえてしまう。
「子供でさえこんなことはできる」ようなことを必死で取り組まなければならない、そんな状況になれば、どんな人物でも避けられないものだと思う。

でも、人間は、これでは終わらない。ここに、「諦観」にも似た「受け入れる」という経過を乗り越えられれば、次につながるのだ。誰もが哀れみ悲しむ、そんな自分の姿・実情を認めることで。「今の自分にできることは何か」を探し、見つけ、行動するのだ。

さらに素晴らしいなのは、まわりにいる人々は「この人が、これだけのことをした!」という評価・承認を抱き、与えることができることだ。どんなに常識にとらわれていても、固定観念をもっていても、目の前にいる人間の現在を理解し、思いやり、心を動かされることができるのだ。そして、それを当事者に伝えることで、相手に「生きる、存在する喜び」を還元する。そんな循環をつくるチカラが、人・社会にはあるのだ。


大事なのは、「悲しみの共感」にとどまらないことだ。最初のステップとしてはものすごく重要なことなので、失ってはいけない。でも、とどまってしまうと、「乗り越えようとしている、あるいは乗り越えた相手が前に進むのを引き止めてしまう。
ここが、この映画の核だと感じた。外から見て取れる(とまわりが思っている)様子(体の動き、表情、言葉)と本人の意思は、意外とずれているかもしれない。これを意識できているか。

まわりからサポートするときは、どうしても慈善的な意識といった感覚で、自己陶酔していないかどうかに気を配ること。それこそが、本当に大切な相手に対する、大切な接し方だと思った。

いまは映画の印象で記憶が強いけど、この感覚はこれからも忘れずにいきたい。