KY⇒KM⇒KK

■KY
そろそろ賞味期限にを迎えてきた感があるこの言葉。とはいえ、日常で意識することは多々あるもの。


自分のまわりを振り返ってみると、空気が読めない人というのは実際いる。
少し前にあったこと。諸事情でしばらく会社を離れることになった人がいた。かなり急な話だったこともあって、最後の日は午前いっぱいで退社していった(かつ、あまり好ましくない離れ方だった)。
ところが、その人、1時間くらいしたときに電話をかけて、同僚と個人的な事情で会う約束をしたのだった。その同僚は会社帰りに待ち合わせるつもりだったのだけど、本人は会社に入ってきた。かつ、自席に座った。しかも「呼ばれちゃいました」みたいな感じで、へらへらと笑みを浮かべながら。


ここまでいくと、KYとはちょっと違うかもしれない。けど、KYの本質はこういう面にあると思っている。
「自分以外の状況が悪い方向にいってしまうことを、意識せず(悪気無く)にやってしまう」



しかしながら、すべての人は、どこかしらにKYの要素を持っていると思う(「自分はまったくKYではない」と言うこと自体がKYの要素を満たしていると思う)。
で、KYと言われる人と言われない人との違いは、「目立たないように配慮した対応ができるかどうか」にあるのだと思う。あと、自分がKY側にいるグループや場面に属する機会の多さで変わるとも思う。


社会は「この配慮ができることが大切」となるようにできている。それ自体は、間違っていないとは思う。


でも、最近、ふと疑問がわいた。
「KYって、本当はいい面があるのではないか?」と。




■KM
そこで思ったのが、KM。
「空気を無視する」


「こういうことを言ったら(やったら)KYだな」という自覚をもった上で、確信犯的に動くこと。
悪気があってやるというのではなく、「これをやったらどうなるだろう?」というお試し的な動きという感じ。
あと、「自分が我慢すればいい、で済まさない」という感覚でもあると思う。


これができると、いろいろと楽になりそうな気がする。
「まわりに迷惑をかけてしまったら、きちんと謝ればいい」というくらい割り切って、さくさくと動いていけるイメージでしょうか。



最近、少し、こういう感覚を持つようにしているところです。良いか悪いかは、いまのところわかりませんが・・・(^_^;




■KK
で、KMが磨かれていくとどうなるか。それがKK。
「空気を(ポジティブな方向に)変える」


これができる人とKYは、ちょっとした違いのように思う。バカと天才は紙一重、みたいな感じが近い。
「ここでそんなこと言っちゃうの?」みたいなことをするのはKYと近い。でも、それがまわりに受け入れられるかどうかが、KYとの違い。


KKにとって必要なのは
 ・もともと、そういう展開を頭に描いている
 ・まわりりにとって価値のあることを意識している
 ・すでに「この人はすごい」という評価を植えつけている
といったあたりでしょうか。
これがあると「飛んだことを切り出せるタイミングを生み出せる」ようになるのだと思う。


さて、このKK。
イメージでいちばん近いのは、秋元康。実際に会ったことはないのですけど。
以前、とある作家さんからきかせてもらった「秋元康」の印象が強いのです。


ある企画会議でのこと。すでに活躍している作家陣が集まっていたのだけれど、ものすごく煮詰まった場面になった。これというアイディアがでてない。もう搾り出せないんじゃないか、みたいな状況。そんなとき、秋元康はふと席をたってトイレに。その間も、打ち合わせの状況は変わらない。
少したって、秋元康が戻ってきて、席に座るなり「こういうのどう?」と話を切り出したらしい。それが、その場をものすごく盛り上げるアイディアだったと。


あとで思い返すと、アイディアそのものは、それほど斬新というわけでもなかったらしい。でも、そこにいた人たちは、まんまと「それだよ、それ!」みたいな波に飲み込まれたとのこと。
そうして、トントン拍子に話をまとめあげて、秋元康は「さっ」とその場をあとにしたとのこと。




僕も、こういうことができる何か(分野とか)を持ちたいなぁ(^_^